白樺《しらかば》』の武者小路《むしゃのこうじ》氏の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜しむ心はなかなかにあわれは深い。
 もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱《しゃくねつ》の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤《たいこう》秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣《ひうんかく》から飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代《かわ》る女《もの》はなかったとの歎《たん》をもたれたのだから悲しい。
 も一度、
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かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。
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 この歌は、嫁《とつ》がれてのち、夫君《つまぎみ》を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。

 爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経《た》ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝《すぐ》れた家の爵位を嗣《つ》ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子《かずこ》夫人から、天降《あまくだ》り案が提出されたのだから、捏《こ》ね廻してしまったものには具合がよかったと、ことが運んだわけだった。
 山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、
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――重職会議へ極めて内々のお諮《はか》りがありました。御生家《ごせいか》の九条公爵の御分家たる良致《りょうち》男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。
籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁《いいなずけ》として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に――良致男爵は籌
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