徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝《ごれんし》(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主――光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝《たから》娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。
 本願寺さんのお姫《ひい》さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身《ひとりみ》でと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌《て》のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。
 なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人《わこうど》たちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、籌子《かずこ》夫人について各地|遊説《ゆうぜい》に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいお姫《ひい》さまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛《あゆ》と権謀の周囲で、離れてはじめて貴《たっ》とさのわかるのは真《まこと》だけだ。
 一葉《いちよう》女史の「経《きょう》づくえ」は、作として他《ほか》のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経づくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、あるとおもう、明治年代の、淑《しと》やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふくめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすこはぬけ出てしまって雑誌『
前へ 次へ
全22ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング