に痛切に響いてくる。
 私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたが――
「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。
[#ここから2字下げ]
かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな
三夜荘《さんやそう》 父がいましし春の日は花もわが身も幸《さち》おほかりし
緋《ひ》の房《ふさ》の襖《ふすま》はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――『金鈴《きんれい》』より――

       二

 東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、弥女《いやにょ》が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所《びょうしょ》をつくったのにはじまる。この弥女は覚信尼《かくしんに》といい、この人の孫が第三世|覚如《かくにょ》。親鸞の子|善鸞《ぜんらん》から、如信《にょしん》となり、覚信尼の孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と煩悩《ぼんのう》もあったわけだった。八世の蓮如《れんにょ》上人の時、伝道|教化《きょうげ》につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまでのぼったのだ。十世|証如《しょうにょ》のころは戦国時代ではあり、一向一揆《いっこういっき》は諸国に勃発《ぼっぱつ》し、十一世|顕如《けんにょ》に及んで、織田信長と天正《てんしょう》の石山合戦がある。
 石山本願寺は、現今《いま》の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨《りんし》が下《くだ》って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉《とよとみひでよし》から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地《じち》の寄附を得た。しかし、この時に今日《こんにち》の東西本願寺――本願寺派本山のお西《にし》と、真宗大谷派本願寺のお東《ひがし》とが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門《けいもん》の示唆によって長子が退けられたともいわれている。
 東本願寺教如上人は、
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