たもので、鏡は顏を見るものとしてで、姿見《すがたみ》の前にくると別な氣分です。といふのは、あたしは踊りが大好きだつたので、お師匠さんなしの自由な踊りの稽古がたのしめたのです。いはばまあ、姿見が師匠なのでした。變なかたちをすると、「拙《まづ》い」と叫ぶ、實に生《き》まじめなもので、その聲は自分の聲とはしないのでした。
そこで、おとなになつてからのあたしは鏡にこすい[#「こすい」に傍点]對しようをすることを覺えました。一個の鏡を二ツに役にたてる。ある折はあらゆる自分の缺點《あら》さがしをやります、醜さのかぎりを探りだします。それは顏面といふだけではなく、心にまで觸れてゐます。もつとも多く鏡の前で考へます、自分自身の惱みについて――それは深刻なものです。いつもいつもがさうであるとはいひませんが、はじめから自分を睨めるやうにむかふ時もあれば、ふと髮を解く手も忘れて、ボーツとなつてゐる時もあります。前の方の時は惡どく現實的なをりです、後の折はやや空想的です。前の場合には眼は殘酷な秋官《しうくわん》です、なさけ用捨もなく毛筋ほどのおもねりもありません、氣孔《けあな》ひとつにも泣きたいほどの厭さが
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