付きの老女格の人と、御前様づきのお側女中との二人が一人の下《しも》女中を雇っている世帯へ、食事は御番《ごばん》――主人の食事係が賄うことにして、部屋だけ居候だった。
 老女中さんたちは自分賄いの共同台所をもっていたのだから、いきおい物資の消費を節約する。御殿は電燈であったが、おひけになると御寝所や次の間は燭台になって、西洋蝋燭がともされる。それを朝ごとに掃除するのもあたしの役目の一ツだ。あたしは、涙を垂らしたともしかけの蝋燭を、折角きれいにした燭台へさすのは景気がよくないので、日ごとに新しくした。夜が長いと、ともしかえるように新しいのを一本添えておくことも忘れなかった。それで、知らず知らずにともしかけが大きな箱へ溜ってくる。それを一本もって来て、ごく短いのを机の角に立てて、ふとんの上にニヤニヤしていたものだが、今度は、そのうちの長いのを選って、部屋用にさせた。ともしかけは、それまでは取り捨ててしまわれたそうなのだが、老女たちは感心だとよろこんだ。
 それによい事は、隣りの部屋ぬしも夜中は不在、わが部屋もお詰め処へ寝る番が二人とも一緒の日が多い。そうなると居候が大威張りで、自室の女中も、となり部屋の女中も、若いものがお引けすぎに寄って来て、芝居の噂話をよろこんでして、お菓子を食べて帰ってからが我が世なのだった。権威のあった御愛妾さんも、御酒が飲めるほうで、毎晩部屋で晩酌のあとは、部屋女中から、あたしからきいた芝居の話をきくのを珍らしがって、夜中の仕事も聞かぬではないが、そんなに好きなら仕方がないと、大目に見てくれたりした。あたしは六円の月給をはじめて得て、三円を食費の足しに差引かれても、残るお金で毎朝小使いさんが下町へ買いものに出るのに頼んで、書籍を購うことが出来た。その時分『女鑑』だとか『大日本女学講義録』などが出て、学びたい餓えを、すこしばかりは満たしてくれた。
 しかし、間もなく、あたしの胸は本痛みになり、隠していたが、ある日の正午ごろ、おくれた朝の仕事をおわって、身じまいにかかろうと、倒れそうな身を湯殿へはこび、風呂にはいるとだめになった。ここで倒れては大変と、拭うひまもなく衣服に身をくるんで、部屋までどうして帰ったか、壁ぎわに横になったまま、半ば意識を失って、死生の間を彷徨する日が十日もつづいた。幸いと、赤十字社の難波博士が主侯の診察に来られる定日《じょうび》だったので、あたしは肋膜炎の手当がほどこされた。冬のはじめのことだった。
 赤十字病院へ入れるにしても、暖かい日の真昼、釣台でといわれたのを、母は家へ連れて帰りたいと願った。彼女も死ぬと思ったのであろう。あたしは夢中で、暫らく帰らない家も見たいとも思っていた。送るものは、早く癒って、また帰って来なさいと、主侯夫妻まで部屋に来て見送ってくださったが、命冥加にもどうやら命はとりとめた。二月の末に、病みあがりの、あと養生もしないで邸へ帰った。その時は息切れが甚《しど》いくらいでわからなかったが、喘息がその次の冬になってあたしを苦しめ、心臓も悪かった。でも、どうにか押し隠して、自分の自由のある夜の世界を楽しんでいたが、息切れと、膝関節炎になって、日本館の長い廊下や、西洋館の階段を終日歩き廻る役は、だんだんつらくなって、人の見ていない時は這ったりしだした。
 足かけ三年目の初夏、奉公をさげられた。あたしは家にいて、また裁縫や解きものの時間を利用しだした。
 おかしな事に、肋膜で病らったあの大病のあとの、短い日数《ひかず》のうちに、あたしは竹柏園《ちくはくえん》へ入門していることだ。ほんとは、もっと早く奉公に出されぬ前、祖母が死ぬと直きに、弟をねんねでおんぶした仲働きが、人形町までといって出た、あたしの買いものの供に付けて出されたが、この女中は二十歳《はたち》を越していて、何かよくわかったから、却って道案内をしてくれて、神田小川町の竹柏園の門に立ったことがあったのだ。まだお若かった佐佐木信綱先生と、新婚早々の雪子夫人は、その時、花簪を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した、ちりめんの前かけをしめていた、あたしの姿を今でも時々おっしゃる。
 さて、入門したといっても、こっちがしたつもりだけで、実のところ、束脩《そくしゅう》もおさめたやら、どうやら、福島の人で、あたしたち姉妹を可愛がってくれた、あまり裕福でない、出入りの夫婦にたのんで、榛原《はいばら》で買った短冊に、しのぶ摺りを摺ってもらいにやって、それが出来て来たのを、十枚ばかりおみやげに持っていったのが、ありったけの心持ちだったのだ。ずっと帰って来てからは、大胆になって、かまわずに稽古日には朝から出かけた。もとより本はないから、先生のうちの玄関の、欄間までギッシリ積んである本箱の上から出して頂くのだった。夏の朝、早くから行くので、昌綱さん(先生の弟御)が大急ぎで座敷を掃いて、踏みつぎをして、上の方の本箱から、納めてある和綴《わとじ》本の大判のを出して貸してくだされた。源氏や万葉のお講義、その他の物語のこともあった。先生の奥様が、母の妹の連合いの上官で、官舎であったのかどうか、おなじ猿楽町の、大きな門のある構内に、お住居があったのと、藤島さんの一粒だねの令嬢をおかたづけになったほどなのだからと、先生については、よほどの信用があったから、母も、国文学を学びに通うことは見て見ぬふりをしてくれるようになりはしたが、許可されたのではないから、足りても足りなくってもお小遣いのうちから小額の月謝をもって行ったのだが、気まりわるくも思わなかった。朝の仕事をすますと御飯を食べている暇がなかった。神田小川町までではあるが、歩いて通わなければならない。大雨が降ると、帰りには足駄をぬいで跣足《はだし》で歩いてくるので、漸く、近所の眼がうるさくなりだした。そんな日には、大問屋の店の者は、欠伸《あくび》をしているのもあるから、あたしの育ちを、赤ん坊の時から知っている、旦那たちまでが気にしだした。
「先生ンとこのお嬢さん、どちらへおやりになっているのかと、申す者もございます」
 と、父に耳打ちをする者もあるので、母が気にしだした。縁談なども、選りにもよって近所の鉄成金の家で、家じゅうで芸妓遊びをするといった派手な家からの所望を、昔を知っているから大事にするだろうとか――厳しく躾《しつ》けたのは、そんなところへやる為ではなかったであろうに、若き娘は、暮しむきの賑わしさに眩惑されて、生来の気質をあらためるかとでも思ったあやまりであったでもあろう、もとから知りあっていた両家は頻繁に往来し、道楽で勘当されていたという次男に分家支店をもたせ、あたしを貰うことにきめてしまった。
 ――いやだ、いやだ、いやだ。
 訴えるすべもないので、あたしは枕もとの行燈を、ひと晩中に真っ黒におなじ字で書きつぶしてしまった。父に見られたら、どうにかなるという思いで一ぱいだったが、なんのこと、翌日は真っ白に張りかえられてある。どうしてよいか分からぬ憂欝に、病《わずら》いついた。長く寝てしまったが、漸く床の上に起きあがれる日、びっくらしたのは、立派な結納の品々が、運びこまれ、紋付きの人たちが、病気全快のあいさつと一緒に、祝着申しますとあたしに悦びを述べた。
 だが、決心はついた。自由を得る門出《かどで》に、と、あたしは寒い戦慄のもとに、親のもとを離れる第一歩を覚悟した。昔の人が厄年だという十九歳の十二月の末に、親の家から他家へ嫁入りとなって家を出た。嫁にやられるには違いはないが、あたしは円満に親の手を離れる決心であった。だから、途中からでも逃げたい気持ちだったが、父の恥を思うと躊躇させられた。それにまた、華々しいほどの出入りの者にかこまれて、身動きも出来ない羽目となっていた。母は、さすがに、子の心は察しがつくと見えて、紙入れをもたせなかった。一銭の小遣いもわたさなかった。
 以上が、明治十二年末から、二十年の末までの、東京下町の、ある家庭の、親に従順な一人の娘の、表面に現われない内面的生活争闘史である。以下は、彼女が、彼女自身で、茨を苅りながら、自分の道へと、どうにかこうにか歩き出して来た道程であるが、はじめから本道を歩きださぬ者には、よけいな道草ばかり食って、いくらも所念の道は歩いていない。振りかえって見るのも嫌なくらいである。あたしはまっしぐらに、おもてもふらず行こうとすると、きっと障碍が出来てくる宿命に生まれついてでも居るようだが、いって見れば畢竟は努力が足りないのだ。断わっておきたいのは、日に日に進歩した女子教育とは、およそ反対の歩きかたであったので、これが明治女学勃興期の少女の道と思ってもらいたくない。きわめて歪んだかたちなのだ。女流小説家として有名な、故一葉女史は、その前年明治廿八年末に物故されている。

       三

 そこで、生活は一変したが、婚家では困ったお嫁さんをもらったのだった。陽気な家のものたちは、あからさまに言った、水に油が交ったようだ、面白くない、みんながこんなに楽しく団欒して食事をするのに、この娘《こ》は先刻《さっき》から見ていると、一碗の飯を一粒ずつ口へはこんで、考え込みながら噛んでいる――貧乏公卿の娘でもないに、みそひともじか――お姑さんはあられげもなく、そっと書いたものを見つけると、はばかりへ持っていって捨ててしまう。
 病気がちなあたしは、芝居のお供、盛り場での宴席、温泉場行きもみんな断わって留守番を望んだ。出入りの貸本屋にお金を出して新本をかわせ、内密《ないしょ》で読んで、直きにやってしまうので、彼は注文次第で、どんなむずかしい書籍《ほん》も買って来てくれた。あたしはまた、解ろうがわかるまいがむずかしいものに噛りついて、餓えきった渇きを癒した。だが、道楽息子が直きにまた勘当されたとき、この時こそ自分だけで自分を生かす時機《とき》がきたと、離婚のことを言い出すと、先方の親たちは妙なことを言い出した。悴の嫁にもらったのではない、家の娘にもらったのだ。だから、何処へいっても嫁とはいわなかった、娘だといってきていた、実子の娘だと言っていたではないか、帰さないと。
 あたしは世間知らずだった。自己のことにばかり目がくらんでしまって、明瞭《はっきり》した眼をもたなかった。真の愛情がないものが、なんでそんなことを言うのか――変だとは思わないで、ただ厭だとばかり思った。だから、厭さが昂じて死にそうな病気ばかりした。生まれた土地に名声のある我が家を、古鉄屋から紳商になりかけた家が、利用するのを察知しなかった。父の身辺にすこしの危惧も警戒もしなかった。
 父は、前にも言った通り、自由党の最初に籍をおいたが、脱党して以来口ぐせのように、法律も身にあった職業ではない、六十になったら円満にこの家業もやめると、子供であったあたしなどにさえ、時折り洩らしていたほどで、あたしを相手に茶をたてたり、剣を磨いたり、下手な俳句をひねったりして、よく母に、あなたが発句《ほっく》をつくるので考え込むから、おやすが真似をして溜息をつくと、間違った抗議をしたものだった。父は幼少のあたしを連れて、撃剣の会へいったり、釣堀にいったり、政談演説会へいったりした。種々な名誉職をもって来られても、迷惑だと断わるのがつねだった。よんどころなく弁護士会長とか、市の学務委員とか、市参事会員とかにはなっていたが、恬淡な性質で、あばた[#「あばた」に傍点]があるので菊石《きくせき》と号したりしたのを、小室|信夫《しのぶ》氏が、あまりおかしいから溪石《けいせき》にしろと言ったというふうな人柄だった。
 しかし、父の酒飲みなのを知って舅たちが毎夜酒宴を張って、料亭に招じるのを、あたしは見まい聞くまいとばかりしていた。いつであったか、父は米国から帰って来た星亨氏に内見を申し込まれ、星氏が総理大臣になることがあったら、父に市長になってくれと言われたが、嫌だと言ったということは、あたしに話したが――どうも、あたしの婚家のいやな気風が、生家の、あのものがたい家憲の
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