にひっくりかえされて、血をあびたようにこぼしてしまってから、それが長唄杵屋のお揃いで、学校の帰途《かえり》に行く月浚いに、間にあうように新しく縫われた浴衣であるにしろ、それだけの過失で、英語は下げられてしまった。
しかし、子供というものは、不思議なところで自分を生かすものである。読みと、算術――珠算《たまざん》を主にして、手習いと、作文だけの学校でも楽しかった。遊び時間はかなりあるから、あたしはみんなの石版をならべて、即興のでたらめのお話――児童作品長編小説を、算用数字の2の字へ二本足をつけて、毎日つづけて話すのだった。これはたいした人気で、あたしのお座は、十重《とえ》にも取りまかれ、頭の上からも押っかぶさるほどに愛された。
このことを、ある時、校長秋山先生が自慢で、家へ来て話されると、どうも、いけない結果があらわれて来た。
折りもおり、幼少から可愛がって、自慢の弟子にしてくれていた長唄六三郎派の老女《としより》師匠から、義理で盲目《めくら》の女師匠に替えられたりして、面白味をなくしていたせいか、九歳《ここのつ》の時からはじめていた、二絃琴の師匠の方へばかりゆくのが、とかく小言をいわれるたねになっていたところ、この二絃琴のお師匠さんがまた、褒めるつもりで、宅《うち》へお出でなすっていても、いつも本箱の虫のように、草双紙ばかり見てお出でなのに、いつ耳に入れているか、他人《しと》のお稽古で覚えてしまって、世話のないお子ですと、お世辞を言ったのだった。
あたしは、草双紙に実《み》が入って、日が暮れてから、迎えをよこされて帰って来て叱られると、大勢のお稽古を待っていたというのが逃げ口上だったのが、すっかり分かってしまった具合のわるい時だったので、俄然取りしまりが厳しくなって、よからぬ習慣は、寸にして摘まずばといったふうに、ともするとあたしは、奥蔵の縁の下に押込まれたり、蔵の三階に縛りつけられたりして、本を――文字のあるものを見ることを厳禁されてしまった。
それもまた、親の情であったかもしれない。あたしは、アンポンタンと呼ばれ、総領の甚六とよばれ、妹の色の白さに対して烏とよばれ、腺病質ででもあったのか、左の胸がシクシクして何時もそっと揉んでいたが、十二三には、祖母を揉みに毎日くる小あんまに、叩いてもらうほど苦しかったので、母は、机にギッシリと胸を押しつけてばかりいるからだと怒ってもいた。だが、おそろしく幼時は臆病だったので、蔵へは独りでものも取りにゆけないし、我が家でありながら、ぼんぼりをつけなければ、厠へもゆかないというふうであったから、十一やそこらで、床の高い、石でかこった、土蔵の縁の下に、梯子をとりあげられ、薦《むしろ》一枚の上におかれることは、上の格子から光のくるのを遮ぎられてしまうと、冷汗を流して、こおろぎに脅えたり、夏であると風窓が明いていると、そこへ顔を押しつけていたものだった。そんな時、まだちいさかった三人目の妹や四人目の妹が、外から覗きに来て、そのまま土に坐り込んで、黙っていつまでも風窓の内外から顔をおしつけっくらしているのだった。はしごをはずされて三階に縛《いまし》められていても、彼女たちは、いろいろな知恵をふるって鼠のように登って来て、縛めを解いてくれて、そこでお話をせびったり、石版をもって来て絵を描かせたりするのだった。
十三歳になると学校をさげられて、あらたに生花と、茶の湯とに入門させたが、午前九時から午後五時までは裁縫をしこまれた。
我が家の家憲としては、十一二歳を越すと、朝の清掃を大人同様、女中も書生もわかちなく一様にさせることで、妹弟《きょうだい》の世話、床のあげさげが、次の妹へと順送りになると、煙草盆掃除から、客座敷の道具類の清ぶきになる間までに、庭掃除から、玄関掃除、門口に箒目を立てて往来の道路まで掃くこと、打ち水をすること、塀や門をあらったり拭いたりすること、敷石を水で洗いあげることを、手早く丁寧に助けあって励んでやらなければならない。それは夏冬をきらわず、足袋などはいていてするような、なまやさしいやりかたではゆるされなかった。働かないのは、一番目上で老齢である祖母と、幼いものたちだけだった。父も自分の床をあげてキチンとしまい、書斎の掃除まですることもあった。裁判所へ行く前に、多くの客が、二階へも階下《した》へも、離れへも、それぞれ他人に聴かせたくない用をもって来るので、母は一時二時に寝ても、朝は五時かおそくも六時前には起きていた。
夏など、みんなが目ざめる前に、三味線の朝稽古をすまして来ようと、夜の白々《しらしら》あけに、縁の戸を一枚はずして庭へ出ると、青蚊帳のなかに、読みかけた本を、顔の上に半分伏せたまま眠っている母を見ると、母も本は読みたいのだなあと、たいへん気の毒な気がして、早く行って帰って来て、掃除やなにか手つだおうと思った。
二
朝夕に、腰を撫で、肩をもんであげた祖母は、八十八歳であたしの十五の春に死んだ。あたしを一番愛していたが、厳しいしつけでもあった。一ツ身を縫うにも、二度三度といて、縫い直しをさせるのだった。そういうことを恥かしがらないアンポンタンでも少々気まりの悪いこともあるし、教える人の方が、まだ小娘さんなのに、あんまりひどいと怒ることもあった。
ともかく、あたしの教育は、本を読ませないことというに、何時かきまってしまっていたが、まだしも祖母のいるうちは、あたしも小さくなっていたし、母たちも幾分祖母へ遠慮をしていたが、段々とあたしは知恵を出して来た。読み書きをするのに、母が労れて眠る時分をはかり、妹と二人寝る部屋の障子の方へは、屏風やら何やらで灯影をさえぎり、これでよしと夜中の時間を我がものがおに占領しだした。
ところが、洋燈《ランプ》の石油はへって、ホヤは油煙で真っ黒くなる上に、朝寝坊になって、父が怒って、冷水《みず》をあいている口へつぎ込むことなど、仕置きされることが重なってしまった。ある夜中には、寝たと思った母が部屋へはいって来て、大いに怒って父を呼び、父が優しくて見逃しているのだというので、父から楊弓をもって激しく折檻された。祖母のいるころでも、母が強く怒ると、姐《あね》さまのはいっている手箱も、書きものの手箱も、折角、かくして、ぽつぽつと溜めた本類も、みんな焚《も》してしまわれたりしたが、そんなにしても、妹たちも好きだったので、いろいろな工夫をしてくれた。家にも何かしら読みものは多くあった。母が、浴衣ならば、家内が多いので、一度に十反くらいを積んで、縫えと出すと、もう家にいて縫うようになっていたので、静かな、なるべく母の目から遠い二階の部屋にあがって、それこそ朝の仕事も早くすませ、身じんまくも早くしてしまって坐る。そうなると、頭をよく働かして、たいへん手早く巧者に裁断《たっ》てしまって、早縫いの競争なのだが、母が見廻りにくると、実に丁寧な縫いかたをしている。で、一日に一枚はこの分ではどうかと思ってもらっておいて、次の妹と二人がかりで、二枚も三枚も拵らえあげてしまって、それからの残りの時間を、雑読、乱読、熟読の幾日かをものにしていた。
そこで、おかしいのは、母は、なんでそんなに厳しくしたかといえば、出来もしないことにふけって、なま半可な女《もの》になるのを、ばかに怖れたのではないかと思う。だから、あたしが、書いたり、読んだりするのは気に入らないが、ほかのことで、皆とひとしなみに、楽しみとして見聞きすることは許さないではないから、あたしがずっと小さいころ、書生が幻燈会をして近所のものに見せたりするのを、共に楽しんで見ていたように、友達たちで、三味線などひいて芝居ごっこなどしても、それは遊びとして大目に見ていた。そして、あたしどもが、幾分、新知識を得ようとするとき、玄関の大火鉢の廻りや、紫檀の大机のもとに集まって、高等学校から来る大《おお》先生に、西洋ものの小説や劇の話をきくのも、それも許した。
大先生といっても、一高の生徒だった鵜沢総明氏が、まだ惣一といった昔のことで、はじめあたしたちは、千葉の田舎から来たほやほや中学生の書生さんの頭に、白髪《しらが》が多くあるので、黒い毛の方を抜いてしまう方が汚なくないなんぞと、頭の毛を引っつかんだりした、いけない幼女だったが、独逸人の教師の家へ寄宿して、やがて一高の生徒になると、忽ちあたしたちの大先生にあがめ、新しい話――つまり文学を聴くのに貪慾になって、それからそれからとせがんだものだった。次の妹は、趣味の共通から、共同の陣を張りはするが、もともと母の秘蔵娘であるところから、ちょろりと裁縫の時間の内幕を洩らしてしまったりする。そこで、いよいよ懲らしめのため、も一つには行儀見習い、他人の御飯を頂かないものは我儘で、将来|人《しと》が使えないという、立派な条件を言いたてに、母が大好きで、自分が、旧幕時代の大名奉公というもの、御殿女中というものにあこがれていた夢を、時代の違った時になって、娘によって実現して見ることにきめてしまった。父が、旧岡山の藩主であった池田侯の相談役であったのと、そのすこし以前にお家騒動が起りかけたりしたを処理したので、そんな縁故から頼み込んで、旧藩臣の身分のある者の娘でなければつかわなかったという、老侯夫妻のお小姓――平ったくいえば、小間使いみたいな役につけてもらうことになった。十六歳だった。
若いものなどは皆目《かいもく》いない広い邸だった。鼻の頭の赤い老臣が、フーフーと息を吹きながら、袴の裾で長い廊下を拭くように歩いていった。それが有名な国文の学者だといった。表門の坂を俥なり馬車なりが下ってくると、飛び出して、主人の時などは土に手をつく人品の好い門番が、以前は一番上席の家老だったというふうで、小使いも下の女中もみんなお婆さんかお爺さん。たまたま二、三人、上《かみ》女中でないものに若い女がいたが、年寄りもおんなしことで、ただ年が若いというだけ、新時代に対してなんにも知らない人たちばかりだった。
鍾愛《しょうあい》の、美しい孫姫さんが、御方《おかた》(姫の住居―離れたお部屋)に乳母たちにかしずかれていた。侯爵夫人になられた細川博子さんがそのお姫《ひい》さまであったが、あたしが奉公してから間もなく、ウエスト夫人という西洋人のところへ、英語を学ばれに通うことになったとき、そのお乳母さんが附いてゆくのが、およそあたしが、生涯に羨ましいと、人のことを羨んだ、たった一つのことで、お今さん、あなたは傍にいらっしゃるのときいたら、はい、すぐお傍にいますが、なんにも覚えてませんと言った。何とやらん無念のおもいが、胸にグンと来るのを、どうしようもなかったのは、志望してそのお伴のまたお伴に、ついてゆけることなど、およそ出来るわけのものでもなかったからだ。次の部屋にいようとも、あたしの耳は発音をきくだろう、耳で覚えたものを寝てからブックに照し合わせても解る筈だとは――とは、とはと、思いもするが、あたしは読ませないようにという意味が、御奉公の眼目におかれているので、お下がりの新聞さえ読ませられないのだ。御家令というのが、もとの上席家老格で、その人があたしの父の親友、そしてその人が母からよく頼まれて、どうも変な子だということを、年寄りたちに伝えてあるし、母がまた一々、他の人にも、あたしの病いの虫のように話したのであるから、あるいは、老侯爵は面白がって許してくれるかもしれないが、傍のうるささが思いやられて、お孫姫さま英語御教授をおうけになるお供を、お願いする機会はなかった。
だが、それは、その場合大望すぎたのだ。あたしはこれでなかなか自由の時間を持っていたのだ。家にいる時とちがって、夜中の時間は絶対に自由にできる。といって、もとより人に知れないようにではあるが、そこにはまた何やらん、やりよさがあった。お上《かみ》女中の部屋は二、三人ずつの共同部屋で、八畳、六畳、四畳半、三畳の四室に屋根裏二階が物置きになっていた。あたしが置かれた部屋は格の好い方で、老侯の愛妾の部屋に隣り、殿様
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