一角を、ぶちこわしている気がして、不安に思いながら、あたしは父と母にも遠くなっていた。
父は、不名誉な鉄管事件というものに連座した。父は手紙でもって言ってよこした。
長く考えていた良いことを、ちょっとした短いみじかい分時にぶちこわしてしまった。間違った思慮は一分時で、悔いは終生だ、子供に済まない――
あたしは、それを読んでやっぱり父だったと嬉しく思った。誰のことも、そのよってきた道程もいわない、すべてをみんな自分で背負おうとしているのに、あたしは父を見た。よし、あたしは、この後自分のゆるさぬ曲がったことを一分もすまい、潔癖すぎて困るほど清廉に生きて、父のあやまちは性分ではなく、弱さから負った過失だ。自己の罪として受けた心根を知るあたしだけが、銭を愛さず、事志とちがった父の汚名を、心だけで濯《すす》ごうと思いをかためた。
で、読み、書くために自立しようとして来たそれまでの志望《こころざし》を曲げて、まず、人間修業から出直しすることにした。独立するまで、二度は帰るまいと立ち出た実家へ帰って、病をやしない、すこし快くなると釜石鉱山へ行った。そこで三年もすごせば勘当息子の帰参が叶うという約束のもとに行ったのだ。そのあとであたしはあたしの道へ出ようと思った。鉱山所長の横山氏夫妻が、その息子一人では預かれぬと言ったから、行ってもらいたいというのが、先方の両親の願いだった。
事件の最中で、心弱くなっていた父は、病みやつれたあたしを上野駅まで見送ってくれて、二度とやりたくないのだがと呟いていた。しかし、この山住みの丸三年は、あたしに真の青春を教えてくれた。肝心の預けられた息子は居たたまれなくて、何かにつけて東京へ帰って長くいるので、あたしは独居の勉強が出来た。県道からグッと下におりて、大きな岩石にかこまれた瀬川の岸に、岩を机とし床として朝から夕方まで水を眺めくらして、ぼんやりと思索していた。ある時は、水の流れに、書いても書いても書きつくされないような小説を心で書き流していた。「一元論」を読み、「即興詩人」を読み、馴れない積雪に両眼を病んで、獣医も外科医も、内科も歯科もかねる医者に、眼の手術をしてもらって、それでも東京へは出ず、頑固に囲爐裏のはたや炬燵のなかで、繃帯をした眼で、大きな字を書いて日を送っていた。
横山所長は、釜石鉱山をものにするまでに、座敷牢へ入れて止められたほどの苦労をして来て、くされ半纒に縄帯ひとつで、鉱夫と一緒になって働いた人であるし、夫人は夫を信頼して、狐狸の住家だった廃鉱の山へ来たという、東京生まれの女性であっただけに、大変あたしを愛《いと》しんでくれた。
――はじめ聞いていたことと、あんまり違うので――と夫人は言われた。他の者なら、辛抱なさいと言うのだが、あなたにはそうは言わない。すこしも早く、あなたは自分だけになる方が好い。もう山になんぞいないで、十分に自分の道へ出た方が好い。
そう言われて、はじめて道が開けた気がしだした。あたしはこの山住みで、小さな作《もの》を投書して特賞を得たりしたが、これは実力がどの位な辺かという試しにしたことで、これならなぞというたかぶった気持ちではすこしもなかった。
東京へ帰ると、舅が亡くなったりして、離婚のことを言い出せなかった。だが、ぽつぽつと書くものは通るようになって来て、今度は離婚に、婚家の方で意地悪をはじめ、かなり苛酷な目にも逢ったが、その為あたしの健康がおとろえ、もはや生きまいと思われたほどだったので、肺病ではしかたがないと、漸く事がきまった。
その前にあたしは家を出て、実家の世話になっていた。それは一つは、勘当息子にも以前の家をあてがわれ、多少の資本《もとで》をもわけられるようになったから、あたしの心に定めた通りになったから、やましきところがなかったのと、も一つは、あたしの山に居ることを聞いて、作品から慕ってくれていた少年があったから、あたしは、心にもなき家に止まって、その少年の愛を告げる心を掴んでいるのは、両方に対して心苦しく感じたからでもあった。
あたしは、漸くものを書き出しうるようになりつつあった。遅まきながら築地にあった女子語学校の初等科に、十二三の少女たちと一緒になって英語をまなび出した。そのころ父は、一切の公職から隠退して、いくら勧められても出ず、まことに世捨て人のごとく、佃島の閑居に隠遁していたので、あたしは父の傍にいて、父を慰めながら、住吉の渡船《わたし》をわたって通い、日本橋植木|店《だな》の藤間の家元に踊りをならいなどして、劇作を心がけ、坪内先生によって新舞踊劇にこころざしていた。
四
そのころ、母も、まだ巣立たぬ弟妹たちのために、父にかわって、生活の保障をしようとして彼女の性分にあった働きをしていた。以前《もと》すこしばかり、其処を手に入れる時に、お金を用立てた人が死んで、その後家たちは、新橋で旅館をもとからの商業《しょうばい》にしているので、丁度引受け手を探していた、箱根塔の沢の温泉をゆずってもらって、経営しはじめた。
馴れないことではあったが、母は働きずきであったし、客あしらいも知っているのに、父のまがつみを同情する知己の贔屓もあって、温泉亭家業は思いがけないほど繁昌した。それだけに、母も漸く、女も何か知らなければ、こんなことしか出来ないと悟った。かような家業でなければ子供を教育しながらでも出来るのにと、それは、ひしひしと彼女に後悔に似たものを思わせて、あたしを、今度は以前とはあべこべに大事にしてくれ、もはや、家を出てくれるなと言い出した。
あたしの自立は、また此処で一頓挫しなければならないことになった。しかし、書いたものは、歌舞伎座や新富座などで、一流中の一流俳優によって上演されるのがつづくようになった。女流劇作家も他にいなかったし、女流の作が劇場外からとられるのも最初だったが、どうしたことか、絵ハガキなぞも上方屋《かみがたや》から売り出されたりしたので、母はいよいよ悦ばされ、袴をはいてくれれば、頸からかける金鎖と時計を買ってあげるなどと、とぼけたことを言ったりするほどであった。そして彼女も、一層活動しようとした。
そのころ、芝公園内の、紅葉館《こうようかん》という、今でこそ、大がかりな料亭も珍しくないが、明治十四年ごろの創立で、華族や紳商が株主になって、いわゆる鹿鳴館時代の、一方の裏面史を彩どる役目をもっていたうちが、創立者の野辺知翁が死んでから萎微していたのを、当時の社長におされた中沢銀行の中沢彦吉氏が、母を見込んで引き受けてくれないかと、再々足を運ばれた。
中沢氏の後妻には遠縁の女もいっているので、母はたいへん気乗りがして、繁昌な箱根の店を投げ出してまで紅葉館をやろうとした。あたしは反対したが負けた。ともあれこれは、我が家の第二の招いた災難になったのだった。母は精神をすりへらして挽回し、積累の情弊を退ぞけたが、根本の利益を目的の株式組織ということをよくのみこまないでいた。意志の疎通せぬために、中沢氏が歿しられると、母は憤死しはせぬかと思うばかりの目にあって、結局やめた。眼の届かなかった箱根の方もやめなければならなかった。
あたしはその間に、舞踊研究会をまとめて、歌舞伎座で大会を二回、紅葉館で例会を六回催した。新舞踊劇と、古く、忘れられがちな踊りの復活を旨とした。幸いに、菊五郎も三津五郎も猿之助も、米吉、男寅の、踊れる俳優たちと、藤間は勘十郎、勘右衛門の両家、花柳からも、あらそって出演し、新橋芸妓では踊り手の七人組をはじめ大勢が出てくれた。
自作の新舞踊劇「空華」は奈良朝時代の衣装背景で、坪内先生の「妹背山」の試演がその式で紅葉館で催されたことはあるが、そうした服装での舞踊ははじめてであった。衣装は松岡映丘氏、後景は組みものだけが大道具の手でつくられ、画幕は氏のほかに美術学校から大勢来られて描かれた立派なものだった。作曲は鈴木鼓村氏の箏を主楽にしたもので、三味線楽もあしらったが、箏曲をもとにしたのは、やはり最初でもあった。
また、劇場には出演しない葺屋町の吉住一門に歌舞伎の舞台に出てもらい、小三郎氏の作曲になる「江島生島」を初演したのもその会であった。もとより、井上八千代流の京舞をも出した。小山内薫氏がロシアやフランスからもって来た、洋行みやげの舞踊談も、幻燈で示されたりしたのもこの会の収穫だったのだ。
これが動機となって菊五郎一門の、新しい劇研究の「狂言座」を結成した。帝国劇場での第一回公演には坪内逍遙先生の新舞踊劇「浦島」をさせて頂くおゆるしをうけた。森鴎外先生には「曽我」を新しく書いて頂いた。第二回には、木下杢太郎氏の「南蛮寺門前」を中沢弘光氏の後景、山田耕筰氏の作曲でやった。吉井勇氏の「句楽の死」は平岡権八郎氏に後を描いて頂いたりした。
あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような熱情をもって突きすすんでいった。
だが、母の打撃は見てすごされなかった。それに実家では、弟の若い嫁が、赤ん坊を残して死んだ。あたしの手にそれは受けなければ、残された子は死にそうなほど弱かった。それに、も一つ、三上は恋愛を申入れてきかない。それに自分の方へ引っぱってしまおうとする。あたしは、家庭婦として、あっちこっちに入用になって、引きちぎれるように用をおわされた。
それを振りちぎったらば、今日、もすこしましな作を残しているであろうが、父のことに対して、心に植えた自分自身との誓いは頭を持上《もた》げて、まず、人の為になにかする[#「。」の脱落はママ]
そうして、すべてを捨ててかえり見ぬこと幾年? 昭和三年に「女人芸術」に甦えってからの爾来は、あまり生々《なまなま》しいから略すことにする。[#地から1字上げ](昭和十六年十一月〜十七年一月「新女苑」)
底本:「旧聞日本橋」青蛙房
1971(昭和46)年5月15日初版発行
※「先生ンとこ」の「ン」は底本では小書きになっています。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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