れで、人形の帯や巾着《きんちゃく》が出来ていたが――もっとも、明治十二年の大火に蔵だけ残して丸焼けになって、本所の回向院《えこういん》境内まで、両国橋を渡って逃げたということであるから、住居の具合は変りもしたであろうが、とにかく、五軒間口の塀は、杉の洗い出しであったし、門は檜の節無しを拭き込んで、くぐり戸になっていたし、玄関前までは御影石《みかげいし》が敷きつめてあって、いつも水あとの青々して、庭は茶庭風で、石の井筒も古びていた。奥蔵の三階の棟木には、安政三年癸戌建之、長谷川卯兵衛|安備《やすとも》と墨色鮮やかに大書してあった。
 祖父は能書であって、神社の祭礼や、稲荷の登旗《のぼり》に、大書を頼まれることが度々あって、父は幼年から亀田鵬斎や、その他の書家たちから可愛がられ、六、七歳の時分から、絵のたちがよいというので師匠の国年や芳幾《よしいく》に、養子にくれと懇望されたということであった。そんな風なので、父は書や画などを好み、剣術は北辰一刀流の、お玉が池千葉の弟子になって、かなりな使い手になっていたので、彼は江戸ッ児でも、江戸城本丸明け渡しのあとを、守護する役などに用いられたりして、
前へ 次へ
全39ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング