刑部省へ出頭するようになった。
そんなことから法律を学び、増島博士をはじめ十二人の代言人が――後弁護士と改称――出来た最初の、その一人になった。彼は早くから自由党に属していた。
あたしが生まれた年の元旦試筆には、忘れてしまったが大物を書き、お酒が好き、撃剣が好き、磊落であったが、やや、痩せがまんの江戸ッ児肌で、豪傑でもなければ、学者でもなく、正直な、どっちかといえば法律などは柄にもなく、芸術家タイプの、時によると心にもない毒舌を弄してよろこぶ性質《たち》だった。母は、父の浅黒く長身なのとちがって、真っ白な、健康そのもののように艶々した、毛の黒い、そのかわりあまり美人ではなく、学問はないが働くことでは、徳川家の瓦解の時、お供をして静岡へ行った一家で育ち、無禄の士族たちが、遠州|御前崎《おまえさき》の浜で、塩田をつくった折りに、十四歳の少女で抜群の働きをして、親孝行の褒状をもらったという女《しと》で、父とは十六ばかり年がちがっている。あたしはこの母が、人出入りの多い家で、厳しい祖母によくつかえ、よく教えられて、子供がふえても女中の数をまさずに、終日クリクリと、実によく忠実に尽して、しか
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