まとめて、歌舞伎座で大会を二回、紅葉館で例会を六回催した。新舞踊劇と、古く、忘れられがちな踊りの復活を旨とした。幸いに、菊五郎も三津五郎も猿之助も、米吉、男寅の、踊れる俳優たちと、藤間は勘十郎、勘右衛門の両家、花柳からも、あらそって出演し、新橋芸妓では踊り手の七人組をはじめ大勢が出てくれた。
自作の新舞踊劇「空華」は奈良朝時代の衣装背景で、坪内先生の「妹背山」の試演がその式で紅葉館で催されたことはあるが、そうした服装での舞踊ははじめてであった。衣装は松岡映丘氏、後景は組みものだけが大道具の手でつくられ、画幕は氏のほかに美術学校から大勢来られて描かれた立派なものだった。作曲は鈴木鼓村氏の箏を主楽にしたもので、三味線楽もあしらったが、箏曲をもとにしたのは、やはり最初でもあった。
また、劇場には出演しない葺屋町の吉住一門に歌舞伎の舞台に出てもらい、小三郎氏の作曲になる「江島生島」を初演したのもその会であった。もとより、井上八千代流の京舞をも出した。小山内薫氏がロシアやフランスからもって来た、洋行みやげの舞踊談も、幻燈で示されたりしたのもこの会の収穫だったのだ。
これが動機となって菊五郎
前へ
次へ
全39ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング