いてくれれば、頸からかける金鎖と時計を買ってあげるなどと、とぼけたことを言ったりするほどであった。そして彼女も、一層活動しようとした。
そのころ、芝公園内の、紅葉館《こうようかん》という、今でこそ、大がかりな料亭も珍しくないが、明治十四年ごろの創立で、華族や紳商が株主になって、いわゆる鹿鳴館時代の、一方の裏面史を彩どる役目をもっていたうちが、創立者の野辺知翁が死んでから萎微していたのを、当時の社長におされた中沢銀行の中沢彦吉氏が、母を見込んで引き受けてくれないかと、再々足を運ばれた。
中沢氏の後妻には遠縁の女もいっているので、母はたいへん気乗りがして、繁昌な箱根の店を投げ出してまで紅葉館をやろうとした。あたしは反対したが負けた。ともあれこれは、我が家の第二の招いた災難になったのだった。母は精神をすりへらして挽回し、積累の情弊を退ぞけたが、根本の利益を目的の株式組織ということをよくのみこまないでいた。意志の疎通せぬために、中沢氏が歿しられると、母は憤死しはせぬかと思うばかりの目にあって、結局やめた。眼の届かなかった箱根の方もやめなければならなかった。
あたしはその間に、舞踊研究会を
前へ
次へ
全39ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング