》だったので、あたしは肋膜炎の手当がほどこされた。冬のはじめのことだった。
赤十字病院へ入れるにしても、暖かい日の真昼、釣台でといわれたのを、母は家へ連れて帰りたいと願った。彼女も死ぬと思ったのであろう。あたしは夢中で、暫らく帰らない家も見たいとも思っていた。送るものは、早く癒って、また帰って来なさいと、主侯夫妻まで部屋に来て見送ってくださったが、命冥加にもどうやら命はとりとめた。二月の末に、病みあがりの、あと養生もしないで邸へ帰った。その時は息切れが甚《しど》いくらいでわからなかったが、喘息がその次の冬になってあたしを苦しめ、心臓も悪かった。でも、どうにか押し隠して、自分の自由のある夜の世界を楽しんでいたが、息切れと、膝関節炎になって、日本館の長い廊下や、西洋館の階段を終日歩き廻る役は、だんだんつらくなって、人の見ていない時は這ったりしだした。
足かけ三年目の初夏、奉公をさげられた。あたしは家にいて、また裁縫や解きものの時間を利用しだした。
おかしな事に、肋膜で病らったあの大病のあとの、短い日数《ひかず》のうちに、あたしは竹柏園《ちくはくえん》へ入門していることだ。ほんとは、も
前へ
次へ
全39ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング