年すると妹があがって来た。利口ものの妹は、両親の寵児だったが、強情なので学校ではよくお残りをさせられて、あたしの方がかなしくなって日暮れまで、ガランとした教場でオロオロしていたが、祖母は一層きびしく仕付けてくれるようにと、そんな時は礼を述べさせに人をよこしたりした。勿論、先生に御母堂や御新造がとりなして帰してくれようとしても、家の者は、お連れ申しますと叱られますと、あたしたちを残して行った。
 教場の――それは、先生の住居を廻った、かぎの手なりの平屋建ての、だだっ広い一棟で一室だけだったが、畳があげられて板を張りわたし、各自《めいめい》の机や、五、六人並べる、学校で備えつけの板だけの長い机が何処にか取りかたづけられて、二人ずつ並ぶ、腰かけつきの、高脚の机になった時、代用小学校という木札にかわって、高等科はないが温習科というのが二年出来た。唱歌の教師が通って来て、英語もその教師が望むものだけへ教えることになった。すべて、六歳が、ものの手ほどきによい年齢というので、長唄なども習わせかたはきびしい方だった。踊りは、すぐ近くの師匠が、ちいさい時分から眼をつけて、連れに来ては舞台へあげて遊ばせていたが、踊りの師匠の母親が、あまりツベコベ追従するので、祖母がいやがって行かせないようにしてしまった。どうも、このことは、何か家庭に関係することがあって、あたしに芸を一ツ覚えさせなかったことになったようだ。
 堅田という囃子方《したかた》の師匠の妹が父の世話になっていて、あたしを可愛がるのが、母におもしろくないのが原因だったようだが、それよりも、あたしにとって、大変な不運だったのは、母方の祖母が何かの便次《つて》があって、あたしを下田歌子女史の関係する塾とかに――それが、何処であったのか知らないが、入れたらと言って来たときには、こんどはどういう意味で祖母が反対したのか、小軋轢があったふうで、沙汰止みになってしまった。「小学生徒心得」という読本が、楷書入りの本を読み習った最初なので、下田歌子の名は幼少な耳にも止めていた名だった。そんなことで、あたしに対する家庭教育は、世の中や、家の業とは大層異った、後《あと》びっしゃりなものであった。
 ともかく泣いて願って、英語は習うことになったが、あいにく、ぶるさげていった赤インクの大きな壜を、白地のゆかたの出来たての膝へ、前の席のものが立ったはずみ
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