も祖母の諭《いま》しめによって、いかなる折りも髪かたちをくずさず、しじゅう身ぎれいに、家の内外も磨きあげたようにして、終日、ザブザブと、水を豊かに汲みあげているような日常を見て、人は働くものだ、働くことは美しいとの観念をたいそう植えつけられている。そして、また、その当時の、知的階級に属した家に生まれながら、奥さまぶった容体を学ばずに過し得たことは、母を徳としている。それもこれも、祖母の睨みがきいたからだと、後日母は言っていたが――
 そこで、あたしは六歳の年に入学した。学齢ではないのだが、私立尋常代用小学校という札の出たのは後のことで、秋山源泉学校という、別室には、習字と裁縫と、素読だけに通ってくる大家《おおどこ》の娘たちもあるので、六歳でも通えるのだった。
 引出しを二ツもった、廉品《そまつ》な茶塗りの手習い机と、硯箱が調えられた。白紙を一帳綴じたお草紙、字が一字も書いてない真っ白な折手本、椎の実筆と、水入れと、※[#「◯」の中に「八」、屋号を示す記号、273−14]の柏墨が用意され、春のある日、祖母に連れられ、女中と書生と俥夫が机をかついで、二丁足らずの、まっすぐな新道を通って、源泉学校へ入学した。児童たちへのおみやげの菓子の大袋は、幾つかさきに届けられているので、白砂糖の腰高折と目録包みが校長の前へ出された。白い四角な顔の、お習字を教える校長のお母さん、黒い細い顔で菊石《あばた》のある校長、丸い色白の御新造《ごしんぞ》さんたちが、苦いお茶を出し、羊羹を出してもてなした。先生に連れられてお座(席のこと)につくと、幾人かの生徒が、お盆に盛りあげた、瓦せんべだの、巻きせんべだの、おこしだの、落雁だのを、全校の生徒にくばるのに、二個三個と加えてゆくのだった。後に、あたしも貰うようになった折り、一日に、二人も三人も新入生があると、冬は蜜柑などがまざって、子供たちをよろこばせた。
 幼年生のときの思い出は、赤い裏の、海軍士官の着るような黒いマントを着てかよった。小さい前髪と、両鬢に奴《やっこ》さんを結んだおかっぱの童女が、しきりに手習い草紙を墨でくろくしていたことだ。それから、机の引出しや硯箱の中へ千代紙を敷いて、白紙《かみ》を丸めた坊主つくりや、細くたたんで、兎の耳のように、ちょいと結んだ、仮定の人形の首に、色紙の着ものを着せて飾り、おばさんごっこをすることを覚えた。二
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