まとめて、歌舞伎座で大会を二回、紅葉館で例会を六回催した。新舞踊劇と、古く、忘れられがちな踊りの復活を旨とした。幸いに、菊五郎も三津五郎も猿之助も、米吉、男寅の、踊れる俳優たちと、藤間は勘十郎、勘右衛門の両家、花柳からも、あらそって出演し、新橋芸妓では踊り手の七人組をはじめ大勢が出てくれた。
 自作の新舞踊劇「空華」は奈良朝時代の衣装背景で、坪内先生の「妹背山」の試演がその式で紅葉館で催されたことはあるが、そうした服装での舞踊ははじめてであった。衣装は松岡映丘氏、後景は組みものだけが大道具の手でつくられ、画幕は氏のほかに美術学校から大勢来られて描かれた立派なものだった。作曲は鈴木鼓村氏の箏を主楽にしたもので、三味線楽もあしらったが、箏曲をもとにしたのは、やはり最初でもあった。
 また、劇場には出演しない葺屋町の吉住一門に歌舞伎の舞台に出てもらい、小三郎氏の作曲になる「江島生島」を初演したのもその会であった。もとより、井上八千代流の京舞をも出した。小山内薫氏がロシアやフランスからもって来た、洋行みやげの舞踊談も、幻燈で示されたりしたのもこの会の収穫だったのだ。
 これが動機となって菊五郎一門の、新しい劇研究の「狂言座」を結成した。帝国劇場での第一回公演には坪内逍遙先生の新舞踊劇「浦島」をさせて頂くおゆるしをうけた。森鴎外先生には「曽我」を新しく書いて頂いた。第二回には、木下杢太郎氏の「南蛮寺門前」を中沢弘光氏の後景、山田耕筰氏の作曲でやった。吉井勇氏の「句楽の死」は平岡権八郎氏に後を描いて頂いたりした。
 あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような熱情をもって突きすすんでいった。
 だが、母の打撃は見てすごされなかった。それに実家では、弟の若い嫁が、赤ん坊を残して死んだ。あたしの手にそれは受けなければ、残された子は死にそうなほど弱かった。それに、も一つ、三上は恋愛を申入れてきかない。それに自分の方へ引っぱってしまおうとする。あたしは、家庭婦として、あっちこっちに入用になって、引きちぎれるように用をおわされた。
 それを振りちぎったらば、今日、もすこしましな作を残しているであろうが、父のことに対して、心に植えた自分自身との誓いは頭を持上《もた》げて、まず、人の為になにかする[#「。」の脱落はママ]
 そうして、すべてを捨ててかえり見ぬこと幾年? 昭和三年に「女
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