からだと怒ってもいた。だが、おそろしく幼時は臆病だったので、蔵へは独りでものも取りにゆけないし、我が家でありながら、ぼんぼりをつけなければ、厠へもゆかないというふうであったから、十一やそこらで、床の高い、石でかこった、土蔵の縁の下に、梯子をとりあげられ、薦《むしろ》一枚の上におかれることは、上の格子から光のくるのを遮ぎられてしまうと、冷汗を流して、こおろぎに脅えたり、夏であると風窓が明いていると、そこへ顔を押しつけていたものだった。そんな時、まだちいさかった三人目の妹や四人目の妹が、外から覗きに来て、そのまま土に坐り込んで、黙っていつまでも風窓の内外から顔をおしつけっくらしているのだった。はしごをはずされて三階に縛《いまし》められていても、彼女たちは、いろいろな知恵をふるって鼠のように登って来て、縛めを解いてくれて、そこでお話をせびったり、石版をもって来て絵を描かせたりするのだった。
十三歳になると学校をさげられて、あらたに生花と、茶の湯とに入門させたが、午前九時から午後五時までは裁縫をしこまれた。
我が家の家憲としては、十一二歳を越すと、朝の清掃を大人同様、女中も書生もわかちなく一様にさせることで、妹弟《きょうだい》の世話、床のあげさげが、次の妹へと順送りになると、煙草盆掃除から、客座敷の道具類の清ぶきになる間までに、庭掃除から、玄関掃除、門口に箒目を立てて往来の道路まで掃くこと、打ち水をすること、塀や門をあらったり拭いたりすること、敷石を水で洗いあげることを、手早く丁寧に助けあって励んでやらなければならない。それは夏冬をきらわず、足袋などはいていてするような、なまやさしいやりかたではゆるされなかった。働かないのは、一番目上で老齢である祖母と、幼いものたちだけだった。父も自分の床をあげてキチンとしまい、書斎の掃除まですることもあった。裁判所へ行く前に、多くの客が、二階へも階下《した》へも、離れへも、それぞれ他人に聴かせたくない用をもって来るので、母は一時二時に寝ても、朝は五時かおそくも六時前には起きていた。
夏など、みんなが目ざめる前に、三味線の朝稽古をすまして来ようと、夜の白々《しらしら》あけに、縁の戸を一枚はずして庭へ出ると、青蚊帳のなかに、読みかけた本を、顔の上に半分伏せたまま眠っている母を見ると、母も本は読みたいのだなあと、たいへん気の毒な気がして、
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