鬼眼鏡と鉄屑ぶとり
続旧聞日本橋・その三
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堀留《ほりどめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大伝馬町二丁目|後《うしろ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「∴」の下に「ノ」、屋号を示す記号、395−13]
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 堀留《ほりどめ》――現今《いま》では堀留町となっているが、日本橋区内の、人形町通りの、大伝馬町二丁目|後《うしろ》の、横にはいった一角が堀留で、小網町|河岸《かし》の方からの堀留なのか、近い小舟町にゆかりがあるのか、子供だったわたしに地の理はよく分らなかったが、あの辺一帯を杉の森とあたしたちは呼んでいた。
 土一升、金一升の土地に、杉の森という名はおかしいようだが、杉の森|稲荷《いなり》の境内は、なかなか広く、表通りは木綿問屋の大店《おおだな》にかこまれて、社はひっそりしていた。そのかみの東国、武蔵の国の、浅草川の河尻《かわじり》の洲《す》のなかでも、この一角はもとからの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。
 社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶《なま》めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路《こうじ》を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前《もと》の葺屋《ふきや》町、堺町の芝居小屋《さんざ》への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保《きょうほう》のころ、芝居でする『恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじょう》』や『梅雨小袖昔八丈《つゆこそでむかしはちじょう》』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川|木場《きば》の材木堀のように、材木を溜《た》めておく置場にもなっていたのかもしれない。
 こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門《そうままさかど》威を東国に振い、藤原|秀郷《ひでさと》朝敵|誅伐《ちゅうばつ》の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡《ほろぼ》したので、この地にいたり、喬々《きょうきょう》たる杉の森に、神像を崇《あが》め祀《まつ》ったのだとある。
 そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞《くそ》と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行《はやり》ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁《ゆえん》はあるが、廂《ひさし》をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。
 それは寛正の頃、東国|大《おおい》に旱魃《かんばつ》、太田道灌《おおたどうかん》江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷《いの》りをした験《しるし》があって雨降り、百穀大に登《みの》る。依《よっ》て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請《かんじょう》したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌《どうかん》が祷ったという神の名も記してない。秀郷祀るところの御本体も置いてない。だが、附記にも、昔杉の木立いと深かりしなりとある。あたしも子供の時分、四月十六日のお祭奠《まつり》に、杉の木へ寄りかかって神楽《かぐら》を見た覚えもあざやかに残っているし、小僧が木の幹にしがみついて、登って見ていたのも覚えているから、幾本かは、幾度かの江戸の大火にも、焼け残って芽をふいていたものと思われる。
 堀留は、地名辞書によると、堀江、または堀留江、伊勢町堀ともいう、日本橋川の一支、北にほり入ること四、五町ばかりとある。
 前置きは長くなったが、そのほとりの大店《おおだな》は、夕方早くから店の格子を入れてしまう。この格子は特長のあるいいものだった。一、二寸角の、荒目の格子で、どっしりとした黒光りの蔵造りの、間口の広い店は、壮重なものにさえ見えた。灯《とも》し火がつけば下の方だけの大戸が下りて、出入口は、引き戸へ潜《くぐ》り口のついたのが一枚おりている。上の方は、暑中でなければ油障子がおろされ、家の中からの灯が赤く、重ったくうつって、墨で描いた屋号の印《しる》しが大きくうきあがっている。譬《たと》えば、※[#「∴」の下に「ノ」、屋号を示す記号、395−13]丁字星だとか、それが三つ組んでいるのが丁吟《ちょうぎん》だとか丁甚《ちょうじん》だとか――丁字屋甚兵衛を略してよぶ――※[#「仝」の「工」に代えて「二」、屋号を示す記号、395−14]《やまに》だとか、※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、395−14]《さつま》だとかいうのだった。そうした大店の棟《むね》つづきで、たてならべた門松などが、師走末の寒月に、霜に冴《さ》えかえって黒々と見える時は、深山のように町は静まりかえって、いにしえの、杉の森の寒夜もかくばかりかと思うほど、竦毛《おぞけ》の立つひそまりかただった。
 いま、ここに、ちょっと出てくる杉本八重さんも、そうした大店のお嫁さんだったのだ。あいにく、幼少《ちいさ》かったわたしは、美しかったお嫁さんのお八重さんの方を見ないでしまって、憎らしいおばあさんの方を見たことがあるが、そのお姑《しゅうと》さんの方も顔にハッキリした記憶が残らないで、話の方が多く頭のお皿のなかに残されている。尤《もっと》も、ほんとの主題は、この二人の方でなくて別にあるのだから、どうでもよいというものの、事実は決してつくりごとではない。しかも一つ家に姉妹とよばれた人が、お八重さんに同情してよく繰りかえして話してくれたことで、おばあさんの方の話は、その当時あまり有名で、子供のあたしたちは聞くのも煩《うるさ》いものに思っていたほどであった。
 明治二十一年ごろ、東京の芝居は、大劇場に、京橋区|新富《しんとみ》町の新富座、浅草鳥越の中村座、浅草馬道の市村座。歌舞伎座が廿二年に出来るまでは、そのほかに中《ちゅう》芝居に、本所の寿《ことぶき》座と本郷の春木座、日本橋|蠣殻《かきがら》町の中島《なかじま》座と、後に明治座になった喜昇《きしょう》座だけだった。劇場《こや》はちいさくとも中島座や寿座の方が、喜昇座より格がよいかにさえ見えた。浅草公園の宮戸座や、駒形の浅草座などは、あとから出来たもので、数はすけなかった。
 そのころの中島座には、現今《いま》の左団次の伯父さんの中村|寿三郎《じゅさぶろう》や、吉右衛門《きちえもん》のお父さんの時蔵や、昨年死んだ仁左衛門《にざえもん》が我当《がとう》のころや、現今《いま》の仁左衛門のお父さんの我童《がどう》や、猿之助《えんのすけ》のお父さんの右田作《うたさく》時代、みんな、芸も、顔もよい、揃って覇気《はき》のある、若い役者の大役を演じるところだった。そこに、後に工左衛門となった、市川|鬼丸《きがん》という上方《かみがた》くだりの若い役者がいて、唐茄子屋《とうなすや》という、落語にもよくある、若旦那やつしが、馴れぬ唐茄子売をする狂言が当って、人気が登って来たが、坊主頭の女隠居がついているというので、大変やかましい取り沙汰になった。その当時、そうしたみだらごとで、女隠居の名が新聞に出るということなどは、この物堅い大店町では、実際たいした内面暴露なのであったが、ものに動じない女隠居は、資産《かね》のあるにまかせて、堀留から蠣殻町まで、最も殷賑《いんしん》な人形町通りを、取りまき出入りの者を引きしたがえて、廓《くるわ》のなかを、大尽《だいじん》客がそぞめかすように、日ごとの芝居茶屋通いで、世間のものを瞠目《どうもく》させたのだった。男|妾《めかけ》――いやな字だが、そんなふうにも書かれた。男地獄《おじごく》――そんなふうにも言われた。だが、幼いものには、なんのことだかわからないが、憎々しい坊主女だとは思った。
 このお婆さんが、人もなげな振舞いを、当主がどうして諫《いさ》められないのかといえば、実子ではなかったのだ。二人生んだ子を、二人まで死なせてしまって、養子をしたのではあり、このおばあさんと、死んだ連合《つれあい》とが、前にいった大長者格の呉服問屋、丁吟《ちょうぎん》からのれん[#「のれん」に傍点]を貰って、幕末明治のはじめに唐物屋を開いたのが大当りにあたって、問屋まちに肩をならべ、しかも斬新《ざんしん》な商業だけに、横浜の取引、外国人との接触などで、派手であり暮しむきも傍若無人な、金づかいのあらいものだったのだ。
 おばあさんは頭のおさえ手がなく、鼻息のあらいのは、その辺の御内儀とちがって、成上り者だったのだ。この女は、生れたのが葺屋《ふきや》町――昔の芝居座の気分の残る、芸人の住居も多く、芳《よし》町は、ずっとそのまま花柳《かりゅう》明暗の土地であり、もっと前はもとの吉原もあった場処ではあり、葺屋町は殷賑なところで、そこの古着屋の娘に生れた、おつやというのがそのおばあさんの名だったが、役者買いと嫁いじめで、人よんで「鬼眼鏡」と綽名《あだな》した。
 その女が若い盛りに、杉の森の裏小路で、長唄のお師匠さんをしていた時分、若い衆であったお店《たな》の人甚兵衛さんが思いついて夫婦になり、当時の開港場横浜取引の唐物屋になったのだ。この鬼眼鏡に睨《にら》まれて、三十歳になるかならずで、明治廿二、三年ごろに死んだお八重さんは、神田ッ子だった。下駄《げた》の甲羅問屋の娘さんで、美しいので評判な娘だったのを、鬼眼鏡が好んでもらったのだが、実家にいては継母《ままはは》で苦労し、そこでは鬼眼鏡に睨み殺された。と、いうと、おだやかでないが、陰気で、しなやかに撓《たわ》む、クニャクニャした気象の女《ひと》だったら、どうか我慢も出来たであろうが、お八重さんが、サックリした短所も長所も、江戸ッ子丸出しの気性《さが》だったのだから、その嫁と姑のやっさもっさ[#「やっさもっさ」に傍点]が、何処《どこ》やら、今から見ると時代ばなれがしている。
 鬼眼鏡おばあさんのおつや、世間でやかましい鬼丸との評判を、嫁にきかせまいとするので、嫁の外出はすっかりとめて、しかも嫁いじめの手は、雪が降る日には、店の者も奥の者も、みんな、およそ雇人《やといにん》と名のつくものは一人残らず中島座の見物にやり、土間(客席のこと)の桝《ます》を埋めさせる。そのあとで、風呂にはいりたいといいだす。それも、折角だから、雪風呂にはいりたいといって、雪を嫁さんに掻《か》きあつめさせて沸《わ》かさせる。今日のようにガスや、石炭などはない、薪《まき》で燃す時分にである。
 だから、お八重さんは、勝気な血がどうしても鎮《しず》まらないと、生《いき》の好い鰹《かつお》を一本買って腸《わた》をぬかせ、丸で煮て、ちょっと箸《はし》をつけたのを、下の者へさげたりする。あるときは、大丸(有名な呉服店)へ、明石の単衣《ひとえ》物を誂《あつら》えて出来上ってくると、すぐさま、たとう紙から引出して素肌に引っかけ、鬼眼鏡の目をぬすんで、戸棚の中へはいって昼寝をする。一度でも、好みの衣類に手を通したよろこび――それで堪能《たんのう》していたのだった。

 唐物屋は――小売店の唐物屋は、舶来化粧品から雑貨類すべてを揃えて、西洋小間物雑貨商などのだが、問屋はその他、金巾《かなきん》やフランネルの布地《きれじ》も主《おも》であり、その頃の、どの店でも見ない、大きな、木箱に、ハガネのベルトをした太鋲《ふとびょう》のうってある、火の番小屋ほどもあるかと思われる容積の荷箱が運びこまれて、棟の高い納屋を広く持ち、
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