空函《あきばこ》をあつかう箱屋までがあって、早くから瓦斯《ガス》やアーク燈を、荷揚げ、荷おろしの広場に紫っぽく輝かしたりした。構えも大きく広やかだった。
それにつづいて、見かけは唐物問屋ほど派手ではないが、鉄物――古鉄もあつかう問屋がめざましく、揚々《ようよう》としていた。洋銀《ドル》相場での儲《もう》けは、商業とともに投機的で、鉄物屋の方が肌合が荒かったかともおもわれる。いってみれば唐物屋はインテリくさく、鉄商は鉄火だった。
この、鬼眼鏡おつやを学ぶのが、鉄屑肥《かなくそぶと》りの大内儀《おおかみ》さんであったのだ。
前承のおおかめさんは、たしかに鬼眼鏡の有名な遊興によって、発奮したといってもよいのは、彼女も八丁堀の古着やの娘であったし、俺も働いて資産《しんだい》をつくったのだという威張りと、亭主が、横浜まで裸で、通し駕籠《かご》にのって往来《ゆきき》したというほど野蛮で、相場上手だったので運をつかんだのだが、理想が鬼眼鏡だから、自分もそうした人気者を贔屓《ひいき》にしようとした。
「おい、この子は、どこの娘《こ》だ。」
「あたいの娘だよ。」
「嘘《うそ》言え、手めえの面にきいてみろ。」
「ほんだよ、末の娘だあね。」
「ごらんじゃい、まあ! あんまり乱暴におはなし遊ばすので、このお娘《こ》が、はは様のお顔を、びっくりしてごろうじる――」
まったくわたしは吃驚《びっくり》して! 母などとは、きくもいまわしい、汚ない、黒いダブダブ女を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みつ》めていた。
ここで、わたしという、あんぽんたん女史|十歳《とお》か十一歳の、ぼんやりした映像をお目にかける。厳しい祖母の家庭訓に、こんな会話の場所へ連れだされても、みじろぎもしないで坐っているのだったが、鉄屑《かなくそ》ぶとりのおおかみさんの死んだ末っ子と、おなじ年齢《とし》だというので、ちょっと遊んだこともあったので、思い出してしかたがないから、浅草|観音様《かんのんさま》への参詣《おまいり》にお連れ申したい、かしてくれと申込まれて、いやいやながら、親のいいつけにより伴われて来たのだが、そこは観音様ではなく、芝居がえりの、料理屋の座敷だった。
あたしたちが座蒲団に乗ると、すぐ間もなく、テラテラした、金壺眼《かなつぼまなこ》で、すこしお出額《でこ》の、黒赤い顔の男――子供には、女も男も老人に見えたが、中年人だったのかもしれない――柔らかい袴《はかま》を穿《は》いて、黒い手|提《さ》げ袋をさげてはいってくると、座蒲団の上に突ったったまま、あんぽんたんを見てそういったのだった。
と、大女房《おおかめ》さんが、衣紋《えもん》をつきあげながら甘ったれて言ったのだ。あたいの娘だと――
あんぽんたんの憤懣《ふんまん》は、それっきり、ものを食べなくなってしまったのだが、大人《おとな》はそんな感情がわかるほど、しっとりとしていなかった。乾ききった人たちだった。
青黄ろい、横皺の多い、小さな体で、顔が、ばかに大きく長目な、背中をわざと丸くするような姿態《しな》をする、髪の毛が一本ならべて嘗《な》めたような、おおかめさんのお供をしてきた大番頭の細君は、御殿づとめをしたという、大家の女房さんたちのするような、ごらんじゃい言葉で、ねちねちとものをいって、その場をとりなすのだった。
「ほんとにおめえの娘なら、亭主の子じゃあねえな、おれんとこへよこしな、みっちり芸をしこんで――」
「芸者に売るんだろう。」
「まあまあ、何をおっしゃるやら、以前《いぜん》のようには、茂々《しげしげ》お目にかかれませぬに――」
そういう大番頭夫人の顔を、いつぞや、見世ものでみた、※[#「けものへん+非」、402−14]々《ひひ》のような顔だと、あんぽんたんは見ているうちに気味が悪くなった。
「しげしげお目にかかるんじゃあ、おらあ、生きてるより死んだ方がいい。」
「あんな、もう、憎《にく》て口を――」
大番頭夫人は口で憎がるが、おおかめさんは機嫌よくお杯口《ちょく》を重ねて、お酌をしたり、してもらったりしている。
「次の狂言には、何をやるのさ、お前さん。」
「八百屋の婆《ばば》あだよ。」
「まあね、さぞ、およろしかろうね。」
大番頭夫人は、小さな丸髷《まるまげ》とはつりあわない、四分玉の珊瑚珠《さんごじゅ》の金脚で、髷の根を掻《か》きながらいった。
「厭味《いやみ》な婆あにすりゃあいいんだから、よくなくってどうするんだ。手近に、そのままのがいるじゃあねえか。そっくりそのまま真似ときゃあ、すむんだ。」
ぼんやりと憤っているあんぽんたんの顔を見て、あごで[#「あごで」に傍点]、そら、そこにね、というふうにおおかめさんの方を、しゃくって示しながら、その男は上機嫌に笑った。もの言いより賤《いや》しくない態度で、鋭い毒舌だった。
「おい、おさつさん、八百屋が出るようだったら、衣類《きもの》をかりるぜ、今着ているのを、そのままでいいや。」
と、猪首《いくび》で、抜き衣紋《えもん》をするかたちを、真似て見せた。
あたしは、この肥《ふと》っちょのおおかめさんに、おさつさんという名があるのを、不思議な気もちできいていた。
――この、不思議な会話を、後日思出したときに、幼いころの、この謎《なぞ》のようなことばが、やっと解けたのだった。八百屋の婆とは『心中宵庚申《しんじゅうよいごうしん》』の八百屋半兵衛の養母の役でいろぶかい姑婆《しゅうとばば》あのことであったのだ。その時の、袴《はかま》をはいた、色の黒い中年男は、中村勘五郎といった皮肉屋で、浅草今戸に書画や骨董《こっとう》の店を、後になって出したりした、秀鶴仲蔵《しゅうかくなかぞう》を継ぐはずの俳優《やくしゃ》だった。彼は、贔屓《ひいき》の女客を反《そ》らさないようにしながらも、なかなか傲岸《ごうがん》で、しゃれのめしていたのだった。
もし、この女客――八百屋半兵衛の養母の拵《こし》らえ、着附けを、すこし委《くわ》しく述べるとすると、黒|繻子《じゅす》の襟のかかった南部ちりめん、もしくは、そのころは小紋更紗《こもんサラサ》も流行《はや》っていた。友禅の長|襦袢《じゅばん》のこともあったが、売出されたばかりの、ごく薄手の上等の英ネルの赤いのを胴にした半じゅばんへ水色っぽい友禅ちりめんの袖をつけて、袷《あわせ》仕立にした腰巻き――塵《ちり》よけともいうが、白や、水浅黄《みずあさぎ》のゴリゴリした浜ちりめんの、湯巻きのこともある。黒ちりめん三つ紋の羽織、紋は今日日《きょうび》とおなじ七|卜《ぶ》位だった。そのあとで、女でも一寸一卜《いっすんいちぶ》位まで大きくなって、またあともどりしたのだ。しかし、そのまた前まで、ずっと昔から大きいのがつづいていたのだったようだ。
おおかめさんの体重《めかた》は、年をとっていたから、十八、九貫ぐらいだったろうが、そのかわり皮膚が拡《ひろ》がって、どたり[#「どたり」に傍点]としていたから、お腹《なか》の幅や、長く垂れた乳房《ちぶさ》の容積などは、それはたいしたものだった。鼠《ねずみ》ちりめんへ宝づくしを細かく縫にしたじゅばんの半襟は、一ぱいにひろがって藤色の裏襟が外をのぞいている。その間からお酒に胸《むな》焼けのしている皮がはみだすのを、招き猫のような手附きで話をしながら、時々その手で、衣紋《えもん》を押上げるのだった。羽織の紐《ひも》が閂《かんぬき》のように、一文字に胸を渡っていた。
おおかめさんの顔で目立つのは、額と頬っぺたの広々とした面積で、高く盛上っている。口も反《そ》って分厚な、大きな唇をもっていた。そのかわりに、謙遜《けんそん》すぎるのが鼻と眼だった。眼は小いさいばかりでなく、睫毛《まつげ》が、まくれこんでいるので――トラホームだったのかもしれない――小いさいばかりでなく、白っぽく、光りがなくて、そのくせ怖かった。まわりからくる体つきの愛嬌《あいきょう》で、ニコニコしているように見えたが、眼は決して笑っていなかったその眼の無愛想《ぶあいそう》をおぎなって、鼻が親しみぶかかった。お団子を半分にして、それを拇指《おやゆび》でおしつけたように、押しつけたところがピタンとしている。大きな鼻の穴が、竪《たて》に二つ柿《かき》のたねをならべたように上をむいている。
頭は、薄い毛の鬢《びん》を張って、細く前髪をとって――この時分、年配者は結上げてから前髪の元結《もとゆい》をきってしまって、鬢《びん》の毛と一緒に束髪みたいに掻《か》いていたのだが――鼈甲《べっこう》の櫛《くし》、丸髷《まるまげ》の手がらは、水色のこともあれば藍《あい》色のこともあった。プラチナの細い上へ、大きく紫っぽいダイヤが、総彫刻の金指輪のとなりにあって、そぐわない手の上で、迷惑そうに光っていた。
小紋更紗といえば、この、中村勘五郎の息子に、銀之助という少年役者が、その日、芝居の見物をしていた桟敷《さじき》の裏へ挨拶に来ていた。そのころの劇場は、当今《いま》の一階椅子席――一等席から二等席の方へかけて、ずっと細長く、竪に半間はばよりすこしゆるめに、長い長い溝になっていて、畳がずっと敷きつめてある。それが両|花道《はなみち》のきわまでつづき、またそれを一コマずつに、細い桟木《さんぎ》で仕切っていって、一コマが、およそ一間の四分の一に仕切られて、その中に四つ、または五枚の座蒲団《ざぶとん》が敷いてある。これが芝居道でいう一間《いっけん》――一桝《ひとます》なので、場席《ばせき》を一間とってくれ、二間《にけん》ほしいなどというのだった。二間三間と陣《じん》どって、ゆっくりはいりたければ、代金さえ支払えば定員だけはいらなくともよいのだし、そのかわりに子供も交《ま》ぜて六人はいっている窮屈なのもある。それを一桝とれとか二桝ともいった。桟木《ませ》は――ツマリ仕切りは、出方《でかた》――劇場員によって取りはずしてくれるから、連れであることは桝を見ればわかるのだった。役者の連中は、この長い竪《たて》の溝を貫ぬいて幾本もとるのと、夏なぞは、その役者の揃いの浴衣を着て、役者の紋のついている団扇《うちわ》を一人ひとりが持っているので、華《はな》やかでもあり、宣伝としても効果的だった。花道の外になる両側は三段、もしくは四段の雛段《ひなだん》式に場席がなっていて、一桝くぎりはおなじだが、これは舞台へ斜めにむかう工合《ぐあい》で、おなじ竪に流れていながら横にならんでいる感じでならび、一段ごとに緋《ひ》の毛氈《もうせん》がかかっていた。もとより、その雛段にも連中は並《なら》んだから、魚河岸《うおがし》とか新場とか、大根河岸《だいこんがし》とか、吉原や、各地の盛り場の連中見物、その他、水魚連《すいぎょれん》とか、六二連《ろくにれん》、見連《けんれん》といった、見巧者《みごうしゃ》、芝居ずきの集まった、権威ある連中の来た時など、祝儀をもらった出方《でかた》が、花道に並んでその連中に見物の礼を述べたり、手打《てうち》をしたりして賑わしかった。
この雛段を、下から、新高《しんだか》、高土間《たかどま》、桟敷《さじき》ととなえ、二階にあるのは二階|桟敷《さじき》、正面桟敷といった。そこにも緋のもうせんがかかっている。「助六《すけろく》」の狂言の時などは、この二階桟敷の頭の上と、下の桟敷の頭の上に、花のれんがさがり、提灯《ちょうちん》がつるされるので、劇場内は、ぐるりと一目《ひとめ》に、舞台の場面とおなじ調子をつくりだすので、見ている観客までがその場の、一場景につかわれる見物人にもなるので、浮立ってくる心理が、とても、こく[#「こく」に傍点]のある甘さとなって、演じる役者もみるものも、とうぜんと酔っぱらったのではないかと思うし、昔の芝居のおもしろさは、こんなところにあったのだなということが、今になって思われるのだった。
そうした桟敷の後の板戸を、そっと引き開けるものがあった。舞台に夢中になっている女たちは気がつかなかったが、ちいさな、あんぽんたんは、透間
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