、女も男も老人に見えたが、中年人だったのかもしれない――柔らかい袴《はかま》を穿《は》いて、黒い手|提《さ》げ袋をさげてはいってくると、座蒲団の上に突ったったまま、あんぽんたんを見てそういったのだった。
と、大女房《おおかめ》さんが、衣紋《えもん》をつきあげながら甘ったれて言ったのだ。あたいの娘だと――
あんぽんたんの憤懣《ふんまん》は、それっきり、ものを食べなくなってしまったのだが、大人《おとな》はそんな感情がわかるほど、しっとりとしていなかった。乾ききった人たちだった。
青黄ろい、横皺の多い、小さな体で、顔が、ばかに大きく長目な、背中をわざと丸くするような姿態《しな》をする、髪の毛が一本ならべて嘗《な》めたような、おおかめさんのお供をしてきた大番頭の細君は、御殿づとめをしたという、大家の女房さんたちのするような、ごらんじゃい言葉で、ねちねちとものをいって、その場をとりなすのだった。
「ほんとにおめえの娘なら、亭主の子じゃあねえな、おれんとこへよこしな、みっちり芸をしこんで――」
「芸者に売るんだろう。」
「まあまあ、何をおっしゃるやら、以前《いぜん》のようには、茂々《しげしげ》お目にかかれませぬに――」
そういう大番頭夫人の顔を、いつぞや、見世ものでみた、※[#「けものへん+非」、402−14]々《ひひ》のような顔だと、あんぽんたんは見ているうちに気味が悪くなった。
「しげしげお目にかかるんじゃあ、おらあ、生きてるより死んだ方がいい。」
「あんな、もう、憎《にく》て口を――」
大番頭夫人は口で憎がるが、おおかめさんは機嫌よくお杯口《ちょく》を重ねて、お酌をしたり、してもらったりしている。
「次の狂言には、何をやるのさ、お前さん。」
「八百屋の婆《ばば》あだよ。」
「まあね、さぞ、およろしかろうね。」
大番頭夫人は、小さな丸髷《まるまげ》とはつりあわない、四分玉の珊瑚珠《さんごじゅ》の金脚で、髷の根を掻《か》きながらいった。
「厭味《いやみ》な婆あにすりゃあいいんだから、よくなくってどうするんだ。手近に、そのままのがいるじゃあねえか。そっくりそのまま真似ときゃあ、すむんだ。」
ぼんやりと憤っているあんぽんたんの顔を見て、あごで[#「あごで」に傍点]、そら、そこにね、というふうにおおかめさんの方を、しゃくって示しながら、その男は上機嫌に笑った。もの言いより賤《いや》しくない態度で、鋭い毒舌だった。
「おい、おさつさん、八百屋が出るようだったら、衣類《きもの》をかりるぜ、今着ているのを、そのままでいいや。」
と、猪首《いくび》で、抜き衣紋《えもん》をするかたちを、真似て見せた。
あたしは、この肥《ふと》っちょのおおかめさんに、おさつさんという名があるのを、不思議な気もちできいていた。
――この、不思議な会話を、後日思出したときに、幼いころの、この謎《なぞ》のようなことばが、やっと解けたのだった。八百屋の婆とは『心中宵庚申《しんじゅうよいごうしん》』の八百屋半兵衛の養母の役でいろぶかい姑婆《しゅうとばば》あのことであったのだ。その時の、袴《はかま》をはいた、色の黒い中年男は、中村勘五郎といった皮肉屋で、浅草今戸に書画や骨董《こっとう》の店を、後になって出したりした、秀鶴仲蔵《しゅうかくなかぞう》を継ぐはずの俳優《やくしゃ》だった。彼は、贔屓《ひいき》の女客を反《そ》らさないようにしながらも、なかなか傲岸《ごうがん》で、しゃれのめしていたのだった。
もし、この女客――八百屋半兵衛の養母の拵《こし》らえ、着附けを、すこし委《くわ》しく述べるとすると、黒|繻子《じゅす》の襟のかかった南部ちりめん、もしくは、そのころは小紋更紗《こもんサラサ》も流行《はや》っていた。友禅の長|襦袢《じゅばん》のこともあったが、売出されたばかりの、ごく薄手の上等の英ネルの赤いのを胴にした半じゅばんへ水色っぽい友禅ちりめんの袖をつけて、袷《あわせ》仕立にした腰巻き――塵《ちり》よけともいうが、白や、水浅黄《みずあさぎ》のゴリゴリした浜ちりめんの、湯巻きのこともある。黒ちりめん三つ紋の羽織、紋は今日日《きょうび》とおなじ七|卜《ぶ》位だった。そのあとで、女でも一寸一卜《いっすんいちぶ》位まで大きくなって、またあともどりしたのだ。しかし、そのまた前まで、ずっと昔から大きいのがつづいていたのだったようだ。
おおかめさんの体重《めかた》は、年をとっていたから、十八、九貫ぐらいだったろうが、そのかわり皮膚が拡《ひろ》がって、どたり[#「どたり」に傍点]としていたから、お腹《なか》の幅や、長く垂れた乳房《ちぶさ》の容積などは、それはたいしたものだった。鼠《ねずみ》ちりめんへ宝づくしを細かく縫にしたじゅばんの半襟は、一ぱいにひろがって藤色の裏襟が外をの
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