の人甚兵衛さんが思いついて夫婦になり、当時の開港場横浜取引の唐物屋になったのだ。この鬼眼鏡に睨《にら》まれて、三十歳になるかならずで、明治廿二、三年ごろに死んだお八重さんは、神田ッ子だった。下駄《げた》の甲羅問屋の娘さんで、美しいので評判な娘だったのを、鬼眼鏡が好んでもらったのだが、実家にいては継母《ままはは》で苦労し、そこでは鬼眼鏡に睨み殺された。と、いうと、おだやかでないが、陰気で、しなやかに撓《たわ》む、クニャクニャした気象の女《ひと》だったら、どうか我慢も出来たであろうが、お八重さんが、サックリした短所も長所も、江戸ッ子丸出しの気性《さが》だったのだから、その嫁と姑のやっさもっさ[#「やっさもっさ」に傍点]が、何処《どこ》やら、今から見ると時代ばなれがしている。
鬼眼鏡おばあさんのおつや、世間でやかましい鬼丸との評判を、嫁にきかせまいとするので、嫁の外出はすっかりとめて、しかも嫁いじめの手は、雪が降る日には、店の者も奥の者も、みんな、およそ雇人《やといにん》と名のつくものは一人残らず中島座の見物にやり、土間(客席のこと)の桝《ます》を埋めさせる。そのあとで、風呂にはいりたいといいだす。それも、折角だから、雪風呂にはいりたいといって、雪を嫁さんに掻《か》きあつめさせて沸《わ》かさせる。今日のようにガスや、石炭などはない、薪《まき》で燃す時分にである。
だから、お八重さんは、勝気な血がどうしても鎮《しず》まらないと、生《いき》の好い鰹《かつお》を一本買って腸《わた》をぬかせ、丸で煮て、ちょっと箸《はし》をつけたのを、下の者へさげたりする。あるときは、大丸(有名な呉服店)へ、明石の単衣《ひとえ》物を誂《あつら》えて出来上ってくると、すぐさま、たとう紙から引出して素肌に引っかけ、鬼眼鏡の目をぬすんで、戸棚の中へはいって昼寝をする。一度でも、好みの衣類に手を通したよろこび――それで堪能《たんのう》していたのだった。
唐物屋は――小売店の唐物屋は、舶来化粧品から雑貨類すべてを揃えて、西洋小間物雑貨商などのだが、問屋はその他、金巾《かなきん》やフランネルの布地《きれじ》も主《おも》であり、その頃の、どの店でも見ない、大きな、木箱に、ハガネのベルトをした太鋲《ふとびょう》のうってある、火の番小屋ほどもあるかと思われる容積の荷箱が運びこまれて、棟の高い納屋を広く持ち、空函《あきばこ》をあつかう箱屋までがあって、早くから瓦斯《ガス》やアーク燈を、荷揚げ、荷おろしの広場に紫っぽく輝かしたりした。構えも大きく広やかだった。
それにつづいて、見かけは唐物問屋ほど派手ではないが、鉄物――古鉄もあつかう問屋がめざましく、揚々《ようよう》としていた。洋銀《ドル》相場での儲《もう》けは、商業とともに投機的で、鉄物屋の方が肌合が荒かったかともおもわれる。いってみれば唐物屋はインテリくさく、鉄商は鉄火だった。
この、鬼眼鏡おつやを学ぶのが、鉄屑肥《かなくそぶと》りの大内儀《おおかみ》さんであったのだ。
前承のおおかめさんは、たしかに鬼眼鏡の有名な遊興によって、発奮したといってもよいのは、彼女も八丁堀の古着やの娘であったし、俺も働いて資産《しんだい》をつくったのだという威張りと、亭主が、横浜まで裸で、通し駕籠《かご》にのって往来《ゆきき》したというほど野蛮で、相場上手だったので運をつかんだのだが、理想が鬼眼鏡だから、自分もそうした人気者を贔屓《ひいき》にしようとした。
「おい、この子は、どこの娘《こ》だ。」
「あたいの娘だよ。」
「嘘《うそ》言え、手めえの面にきいてみろ。」
「ほんだよ、末の娘だあね。」
「ごらんじゃい、まあ! あんまり乱暴におはなし遊ばすので、このお娘《こ》が、はは様のお顔を、びっくりしてごろうじる――」
まったくわたしは吃驚《びっくり》して! 母などとは、きくもいまわしい、汚ない、黒いダブダブ女を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みつ》めていた。
ここで、わたしという、あんぽんたん女史|十歳《とお》か十一歳の、ぼんやりした映像をお目にかける。厳しい祖母の家庭訓に、こんな会話の場所へ連れだされても、みじろぎもしないで坐っているのだったが、鉄屑《かなくそ》ぶとりのおおかみさんの死んだ末っ子と、おなじ年齢《とし》だというので、ちょっと遊んだこともあったので、思い出してしかたがないから、浅草|観音様《かんのんさま》への参詣《おまいり》にお連れ申したい、かしてくれと申込まれて、いやいやながら、親のいいつけにより伴われて来たのだが、そこは観音様ではなく、芝居がえりの、料理屋の座敷だった。
あたしたちが座蒲団に乗ると、すぐ間もなく、テラテラした、金壺眼《かなつぼまなこ》で、すこしお出額《でこ》の、黒赤い顔の男――子供には
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