を示す記号、395−13]丁字星だとか、それが三つ組んでいるのが丁吟《ちょうぎん》だとか丁甚《ちょうじん》だとか――丁字屋甚兵衛を略してよぶ――※[#「仝」の「工」に代えて「二」、屋号を示す記号、395−14]《やまに》だとか、※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、395−14]《さつま》だとかいうのだった。そうした大店の棟《むね》つづきで、たてならべた門松などが、師走末の寒月に、霜に冴《さ》えかえって黒々と見える時は、深山のように町は静まりかえって、いにしえの、杉の森の寒夜もかくばかりかと思うほど、竦毛《おぞけ》の立つひそまりかただった。
 いま、ここに、ちょっと出てくる杉本八重さんも、そうした大店のお嫁さんだったのだ。あいにく、幼少《ちいさ》かったわたしは、美しかったお嫁さんのお八重さんの方を見ないでしまって、憎らしいおばあさんの方を見たことがあるが、そのお姑《しゅうと》さんの方も顔にハッキリした記憶が残らないで、話の方が多く頭のお皿のなかに残されている。尤《もっと》も、ほんとの主題は、この二人の方でなくて別にあるのだから、どうでもよいというものの、事実は決してつくりごとではない。しかも一つ家に姉妹とよばれた人が、お八重さんに同情してよく繰りかえして話してくれたことで、おばあさんの方の話は、その当時あまり有名で、子供のあたしたちは聞くのも煩《うるさ》いものに思っていたほどであった。
 明治二十一年ごろ、東京の芝居は、大劇場に、京橋区|新富《しんとみ》町の新富座、浅草鳥越の中村座、浅草馬道の市村座。歌舞伎座が廿二年に出来るまでは、そのほかに中《ちゅう》芝居に、本所の寿《ことぶき》座と本郷の春木座、日本橋|蠣殻《かきがら》町の中島《なかじま》座と、後に明治座になった喜昇《きしょう》座だけだった。劇場《こや》はちいさくとも中島座や寿座の方が、喜昇座より格がよいかにさえ見えた。浅草公園の宮戸座や、駒形の浅草座などは、あとから出来たもので、数はすけなかった。
 そのころの中島座には、現今《いま》の左団次の伯父さんの中村|寿三郎《じゅさぶろう》や、吉右衛門《きちえもん》のお父さんの時蔵や、昨年死んだ仁左衛門《にざえもん》が我当《がとう》のころや、現今《いま》の仁左衛門のお父さんの我童《がどう》や、猿之助《えんのすけ》のお父さんの右田作《うたさく》時代、みんな、芸も、顔も
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