ど》威を東国に振い、藤原|秀郷《ひでさと》朝敵|誅伐《ちゅうばつ》の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡《ほろぼ》したので、この地にいたり、喬々《きょうきょう》たる杉の森に、神像を崇《あが》め祀《まつ》ったのだとある。
そこで、早のみこみに、下町は、江戸時代に埋めたてたのだから、いくら杉の森といっても、その後に植林したのだなどという誤解はなくなるわけだ。だが、稲荷さんといえば、伊勢屋稲荷に犬の糞《くそ》と、江戸の名物のようにいわれたほど、おいなりさんは江戸時代の流行《はやり》ものだが、秀郷祀るところの神さまと、どうして代ったのかというと、それにも由縁《ゆえん》はあるが、廂《ひさし》をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。
それは寛正の頃、東国|大《おおい》に旱魃《かんばつ》、太田道灌《おおたどうかん》江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷《いの》りをした験《しるし》があって雨降り、百穀大に登《みの》る。依《よっ》て、そのころ、山城国稲荷山をうつして勧請《かんじょう》したというのだが、お末社が幅をきかしてしまって、道灌《どうかん》が祷ったという神の名も記してない。秀郷祀るところの御本体も置いてない。だが、附記にも、昔杉の木立いと深かりしなりとある。あたしも子供の時分、四月十六日のお祭奠《まつり》に、杉の木へ寄りかかって神楽《かぐら》を見た覚えもあざやかに残っているし、小僧が木の幹にしがみついて、登って見ていたのも覚えているから、幾本かは、幾度かの江戸の大火にも、焼け残って芽をふいていたものと思われる。
堀留は、地名辞書によると、堀江、または堀留江、伊勢町堀ともいう、日本橋川の一支、北にほり入ること四、五町ばかりとある。
前置きは長くなったが、そのほとりの大店《おおだな》は、夕方早くから店の格子を入れてしまう。この格子は特長のあるいいものだった。一、二寸角の、荒目の格子で、どっしりとした黒光りの蔵造りの、間口の広い店は、壮重なものにさえ見えた。灯《とも》し火がつけば下の方だけの大戸が下りて、出入口は、引き戸へ潜《くぐ》り口のついたのが一枚おりている。上の方は、暑中でなければ油障子がおろされ、家の中からの灯が赤く、重ったくうつって、墨で描いた屋号の印《しる》しが大きくうきあがっている。譬《たと》えば、※[#「∴」の下に「ノ」、屋号
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