手をとって教えてもらった。撃剣もおしえた。色は黒かったが人品の好い人で、御家内《ごかない》も武家の出だから品のある女《ひと》だった。

 三馬《さんば》に逢《あ》ったことがある。そうさ、五十四、五に見えた。猿のしるしのある家で、化粧水を売っていたっけ。倉の二階住で、じんきょやみのくせに妾《めかけ》があった。子供心にも、いやな爺《じじい》だと思ったよ。
 歌川輝国《うたがわてるくに》は、宅《うち》のすぐ前にいたのさ。うまや新道――油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道とは、小伝馬町の牢屋《ろうや》から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿があったから――の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙《ぞうし》の、合巻《ごうかん》かきでは、江戸で第一の人だったけれど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳《ななつ》ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三十五、六だったろう。豊国の弟子だったから、豊国の描いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。種彦《たねひこ》がよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中《しじゅう》見ていても子供だからそんなに大切にしなかっ
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