いきよみつ》が住んでいた。
 大坂町の雷《かみなり》師匠は、冬でも表を明っぱなし、こまよせ[#「こまよせ」に傍点]から、わざと見えるようにしてある。上《あが》り口の板敷のところに、いけない児童《こ》を空俵に入れたり、火のついた線香をもたせたりして、自分の傍には弓の折をひきよせておいて、がみがみ[#「がみがみ」に傍点]大声で呶鳴《どな》りちらしている。空俵へ入れるのは、これから河へ流してしまうというのだ。他のおとなしい児童《こたち》がふるえながら詫すると、それをしお[#「しお」に傍点]に俵から出してやる。見えすいた広告法だが、厳《やかま》しい師匠にやらなければ、いけないと思っている、無学町人の親たちには、それが大層評判がよかった。
 国芳の家のそばにも手習師匠があった。私が七歳《ななつ》であったころに、四十位な年配《ねんぱい》で、小笠原の浪人|加賀美暁之助《かがみぎょうのすけ》という人だった。この人のほうは立派な人物で、大橋流の書も佳《い》いし、絵は木挽《こびき》町の狩野《かのう》の高弟で、一僊《いっせん》といって、本丸炎上の時は、将軍の居間の画を描いたりしたほど出来たし、漢学も出来る、手をとって教えてもらった。撃剣もおしえた。色は黒かったが人品の好い人で、御家内《ごかない》も武家の出だから品のある女《ひと》だった。

 三馬《さんば》に逢《あ》ったことがある。そうさ、五十四、五に見えた。猿のしるしのある家で、化粧水を売っていたっけ。倉の二階住で、じんきょやみのくせに妾《めかけ》があった。子供心にも、いやな爺《じじい》だと思ったよ。
 歌川輝国《うたがわてるくに》は、宅《うち》のすぐ前にいたのさ。うまや新道――油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道とは、小伝馬町の牢屋《ろうや》から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿があったから――の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙《ぞうし》の、合巻《ごうかん》かきでは、江戸で第一の人だったけれど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳《ななつ》ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三十五、六だったろう。豊国の弟子だったから、豊国の描いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。種彦《たねひこ》がよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中《しじゅう》見ていても子供だからそんなに大切にしなかっ
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