育ちでも、どこか女|伊達《だて》めいた気風をもって、おそろしく仁義礼智の教えを守って――姿の薄化粧のように、魂も洗おうとした。この二行ばかりの文章は、文飾のようにもとられようが、濃かれ薄かれ、そんな気持ちはたしかにあったのだ。人と、その性質は別としても、その地方色としては――
古い日記をくりかえして見ると、父が話してくれたことが書いてあるので、此処《ここ》へ抜いて見よう。
――父の晩酌のとき、甥《おい》の仁坊《まさぼう》のおまつりの半纏《はんてん》のことから、山王様《さんのうさま》のお祭りのはなしが出る。仁《まさし》の両親とも日本橋生れで、亡《なく》なった母親は山王様の氏子《うじこ》、此家《こちら》は神田の明神様の氏子、どっちにしても御祭礼《おまつり》には巾《はば》のきく氏子だというと、魚河岸から両国の際《きわ》までは山王様の氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神の氏子になったのだと、老父《ちち》が教えてくれた。
あたしたちは神田明神へお宮参りをしましたが、お父さんは山王様へお宮参りにいったのですかときくと、そうだといわれる。
それからそれへと古いはなしが出る。以下は老父《ちち》の昔語り――
玄冶店《げんやだな》にいた国芳《くによし》が、豊国《とよくに》と合作で、大黒と恵比寿《えびす》が角力《すもう》をとっているところを書いてくれたが、六歳《むっつ》か七歳《ななつ》だったので、何時《いつ》の間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重《ひろしげ》も来たのを覚えている。二朱《にしゅ》もってゆくと酒と飯が出たものだった。
国芳の家《うち》は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄《ちゅうがら》の男で勢いの好い、職人はだで、平日《しじゅう》どてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫《しごと》をしていたものだ。武者絵《むしゃえ》の元祖といってもいい人で、よく両国の万八《まんぱち》――亀清楼《かめせい》のあるところ――に画会があると、連れていってくれたものだ。
国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満《とり
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