たし、おかみさんのおもよ[#「おもよ」に傍点]というのは、竈河岸《へっついがし》の竃屋の娘で、おしゃべりでしようのなかった女だから、輝国が死んでから、そういうものはどうなってしまったかわからなかった。
住居《すまい》は入口が格子で、すこしばかり土間があって、二間に台所だけ、家賃は(今の金で)三十銭位だとおぼえている。それでもお酒は大好きで、たべものはてんや[#「てんや」に傍点]ものばかりとっていた。貧乏でもそういうところは驕《おご》っていた。芝の泉市《せんいち》だの、若狭屋《わかさや》だのという絵双紙屋から頼みにきても、容易なこっては描いてやらなかった。その時分、定さんという人がよく傭《やと》われてきたものだ。輝国が絵――人物や背景を描くと、その人は、軒だとか窓だとか、縁側だとか、襖《ふすま》とかいったものの、模様や線をひきにくる。腕はその当時いい男だといわれていたのに、弁当も自分持ちで、定木《じょうぎ》も筆も持参で来て、ひどい机だけかりて仕事をして、それで一日がたった天保銭一枚(当時の百文・明治廿年代まで八厘)。今の人がきくと嘘《うそ》のようだろう。
寿鶴亭《じゅかくてい》という八人芸(時雨《しぐれ》云、拙著『旧聞日本橋』の中には、この寿鶴の名が思いだせないで○○斎《さい》と書いたのと同じ人)の上手なのがすぐ近所にいた。娘に、油町の辻新《つじしん》という大店《おおだな》の権助《ごんすけ》を養子にして舂米屋《つきごめや》をさせ、自分たちは二階住居をしていた。賑やかな人で、自分の家の二階で八人芸をやっていると、まったく瞞《だま》されるほど、大勢《おおぜい》寄《よ》っているようにきこえた。かみさんは新宿あたりの上《あが》りもの(遊女の)で、強者《したたかもの》だった。孫娘のおつるというのを手塩にかけて育てていたが、それが後に妾《めかけ》にいって大層出世をしたとかきいた。たしか、大鳥圭介《おおとりけいすけ》さんのところへだときいた。
辻新といえば、あすこの家《うち》の頭《かしら》――出入りの鳶職《とびしょく》――が、芝金《しばきん》の直弟子《じきでし》で、哥沢《うたざわ》の名とりだった。めっかちの、その男のつくったのが「水の音」という唄だ。自分の名の音がよみこんである――
今日はこの位にしておこうといって、父上は枕《まくら》につかれる。こういう事は、いつもきき流し
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