彼は笑い笑い頭をさげた。

 世の中の物騒な時分、祖父母夫婦は奥蔵の二階に寝ていた。ある夜押込みがはいって、祖父《おじいさん》の頬っぺたを白刃《しらは》で叩《たた》いて起した。祖母は小さな声でみんな出してやれといった。祖父は階下《した》におりて金函《かねばこ》の前にすわったが、手が顫《ふる》えて手燭《てしょく》へなかなか火がつかなかった。
 祖母はその間に厠《はばかり》へゆくふりをして、すっかり家中《うちじゅう》を見てきた。外に見張《みはり》が一人いるのが蔵の二階の窓から月の光りで見えた。祖母がすっかりすましてきても、金箱の鍵《かぎ》があかないで、祖父は盗人《どろぼう》におどしつけられていた。
 だが、祖父《おじいさん》は祖母《おばあさん》を信頼している。早く出してやれといったが――祖父は頭の上の、階下《した》から荷物をあげおろしするためにつくってある簾《す》の子に、階下の様子を覗《のぞ》いている祖母の眼を感じた。一枚一枚丁寧に小判を出してやっていたが、そのうちに盗人の方が焦燥《あせ》ってきて早くしろといった。
 昔の金は重い。盗人が一足|外《おもて》へ出たと同時に、奥蔵の二階の窓から、激しく、せわしなく「火事だ火事だ」と金盥《かなだらい》を叩きたてた。それに応じて店でも騒ぎだした。火事早い江戸だから間髪《かんはつ》を入れず近所の表戸が開く、人が飛出す――
 盗人も火事だ火事だと怒鳴って逃げようとしたが、火元の方から逃出すものはない、取りかこんでくる人たちに、ものしたものを投げつけて逃げていった。
 その祖母が女のたしなみを、いかにも簡明に女中たちにも、子供たちにも共通にはなしてきかせるのだ。その中で、あんぽんたんの耳に残っているのは、祖父が蔵を建てようといった時に一戸前《ひととまえ》の金が出来たからと悦《よろこ》んでいったのを、
「も一戸前分の金が出来てからになさい。」
と祖母はいった。自分たちの働きの成績を、一日も早く、黒塗りの土蔵にして眺めたいと願っていた祖父は、明らかによろこばなかった。
 二戸前《ふたとまえ》分の金が集まった時に、祖母はまたいった。
「も一戸前分出来たらにしましょう。」
 さすが温順な祖父も、なぜだと訳をきかないうちは承知しなかった。
「ものは、思っていたより倍かかるものです。まして、長く残そうと思う土蔵《くら》を、金がかかりすぎるからといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」
 それは理由のある理窟だから、祖父は頷《うなず》いた。けれど、三戸前《みとまえ》分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵《くら》は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
 なるほどと思った祖父はうなった。現今《いま》のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手《くうしゅ》で、他人《ひと》の助力《たすけ》をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える。
 私という人間は、また、そうした祖母の教訓をうけながら、利にうとく、空手でものごとをはじめる、赤ン坊のような勇気? 時折自ら苦笑する、『女人芸術』にしてからが、この祖母の諭《いまし》めを服用していたならば、秋風寒しなんて、しなびはしないであろうに――祖母は十九で自己を建設のために遠く出て来た人、私は時代の激しい潮流に押流された江戸人の、残物の、アブクのようなものをうけて生れて来て、文学をよく知らずに、文学でお金をもらうことを覚えた不覚者、そこの相違である。だが、服用していることもある。
「芝居などにゆくのは三度を一度にして、そのかわりものを惜むな。」
 芝居――それより娯楽をしらなかった昔の女は、芝居といったが、それは旅行にも、その他のこともおなじである。これは、当今の、いかに安価に、いかに手軽にというのと、違いすぎる言いかただが、私はいい教えだと思っている。チビチビ、ケチケチ、ならしにしてなまけているのはいけない。自分ばかり愛すと物惜みにもなる。私の母はよく呟《つぶや》いた。
「あのやかましい祖母《おばあ》さんに、十八年も仕えるなんて、なまやさしい辛棒じゃない。」
 けれど、また静かに祖母の長い間の教えを思出すと、
「だけれど、あの方にやかましく言われなければ、私なんぞは、それこそなんにも分らなかったろう。」
 それはたしかにそうで御座いましょうと私は言う。あの木魚のおじいさん(前出)と、そのおかみさん(前出)の子で、十三、四に、お前浜《まえはま》一帯、お旗本、士族といわず、漁師までびっくりさせた勇敢な汐汲《しおく》み少女(前出)のおたきさんである。むちゃくちゃな勇気と働きは、愛されもしたであろうが、辛棒は、祖母の方が多くしたかもしれない。
 祖母のお友達は変っていた。御隠居さんにちょいとお願いがと、やってくるものは、家へくる客とは違って、木綿ものを着て、大層遠慮がちに訪ずれた。だが、
「まあよくお出《いで》だ。」
と祖母が元気よく玄関に現われると、彼女たちは雄弁になって奥へ通る。
 あんぽんたんは夜泣きをして、父母の室《へや》から襖《ふすま》の外へ投《ほう》りだされて、寒い室に丸くなって泣寝入りして、祖母に抱いていかれた夜から、ちゃんと心得てしまって、泣いて室外へ投りだされると、蔵の網戸のとこまで、そっと這《は》ってゆくことを覚えた。すこし大きくなってから、夜半《よなか》に祖母におこされて、お灸《きゅう》を毎夜すえてあげる役目をもった。高齢の人には、心のおけないお伽《とぎ》坊主ですこしは慰めにもなったのであろう、何処《どこ》へゆくにもお供《とも》をさせられるのだった。
 夕御飯《ゆうごはん》がすむと、お気に入りの松さんの車で、ソロソロと、牢屋《ろうや》の原の弘法大師《こうぼうさま》へ祖母は参詣にゆく。ある時は毎晩のように出かける。あんぽんたんと女中とは、ブラ提灯《ちょうちん》をさげて車のわきを歩いてゆく。送りこむと松さんと女中は帰っていった。
 大安楽寺《こうぼうさま》の門前までゆくと、文字焼《もんじやき》やのおばさんと、ほおずきやの媼《おば》さんが声をかける。下足のお爺さんは、待っていたように援《たす》けおろしてくれる。本堂にはお説経の壇が出来て、赤地錦《あかじにしき》のきれが燦爛《さんらん》としている。広い場処に、定連《じょうれん》の人たちがちらほらいて、低い声で読経《どきょう》していた。
 祖母は広い廊下を通って、おさい銭|函《ばこ》の横の一角の、参詣人が「お蝋燭《ろうそく》」と階下から怒鳴ると、おーと返事をする坊さんたちの溜《たま》りの方へいった。そこには大きな角火鉢や、大きな鑵子《かんす》があって世話人や、顔の売れた信者の、団欒《だんらん》する場処《ところ》だった。
 時々|高野山《ほんざん》から説教師が派出されてきた。その坊さんが若くて、学僧らしい顔付きをしていると人気があった。お婆さんたちがはしゃいだ声を出して御寄附の相談をする。麦酒《ビール》なら水だから召上るだろうとか、白足袋を差上げようとか、褌《したおび》におこまりだろうとか――すると、番僧が大火鉢で、肘《ひじ》まで赤いたこ[#「たこ」に傍点]をこしらえて、ガンばってあたりながら、拙僧《わし》にもくれよとか、雑巾《ぞうきん》の寄附がすけなくなったのという。食物をつけとどける人も少くない、毎晩くる中にも、お茶菓子をかかさずもってくるので、火鉢の辺りは有福《ゆうふく》だった。
 大店《おおだな》の内儀《おかみ》さんたちは嫁をそしる。中年になったお嫁さんは、いつまでも姑《しゅうとめ》が意地わるく生きていると悪口《あっこう》しあうのを、番僧たちはうまく口を合せていた。そんな時、祖母は口を決してださなかった。傍《はた》のものが、あんぽんたんの顔をみいみい、円曲《えんきょく》に、母のことに話をむけてゆくと、
「心の鬼の角《つの》をおりに来て、ざんげ[#「ざんげ」に傍点]なさるのはよいが、後生《ごしょう》がようござりますまい。家《うち》の嫁は孝行で、孝行であんなよいものはござりませぬ。」
とやるので、合手《あいて》は苦い顔をしてだまってしまう。私はそこにも厭《あ》きて、錫《すず》の大壺《つぼ》に酌《く》みいれてあるお水をもらって、飲んだり、眼につけていたりする人を眺めていた。
 やがて和讃《わさん》がはじまる。叩鉦《かね》の音が揃《そろ》って、声自慢の男女が集ると、
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有転《うてん》輪廻《りんね》の車より、
三毒《さんとく》五慾《ごよく》の糸をだし
生死《しょうし》のかせわのひまいらぬ
さあてもとうとき、おんあぼきゃ、
べいろしゃの、なかもふだらに、はんどく、
じんばら、はらはりたや、うん――
じんばら、はらはりたや、うんが面白くて、いい気になって高音《こうおん》にうたった。
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 そのうちに、香染《こうぞめ》の衣を着た、青白い顔の、人気のあった坊さんが静々と奥院の方から仄《ほのか》にゆらぎだして来て、衆生《しゅじょう》には背中を見せ、本尊|菩薩《ぼさつ》に跪座立礼《きざりつれい》三拝して、説経壇の上に登ると、先刻嫁を罵《ののし》り、姑をこきおろした女《ひと》たちが、殊勝らしく、なんまいだなんまいだと数珠《じゅず》を繰っておがむ。
 お坊さんは、壇の上の独鈷《とっこ》をとって押頂《おしいただ》き、長い線香を一本たて、捻香《ねんこう》をねんじ、五種の抹香を長い柄《え》のついた、真ちゅうの香炉《こうろ》にくやらす。そして徐《おもむ》ろに、衣の袖を掻《か》きあわせ、瞑目《めいもく》合掌の後、しずかに水晶の数珠をすりあげ、呟《つぶや》くようにひくく、
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ぢん未来《みらい》さい――
帰依仏
帰依法経――
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とかなんとか、涼しい、低くよく通る声で、だんだんに皆をひっぱってゆく。
 祖母は、有難い御僧《おんそう》に、褌《したおび》の布施をする時は、高僧から下足のおじいさんにまで、おなじように二締《ふたしめ》ずつやった。祖母は別段、和讃歌もお経も覚えようとしなかった。松さんがその事を帰りに訊《き》いたら、
「空念仏《そらねんぶつ》だ。」
といった。では、なぜ毎晩参詣なさいますといったら、こう答えた。
「老人《としより》は家《うち》もすこしはあけてやるものだよ。」
 門前の汁粉屋は、人の帰り足をきくと、毎晩かかさず立寄る祖母と、その仲間のために、おしるこを熱くし、おぞう煮もつくっておいた。もんじやきやのお婆さん、ほおずきやのおかみさん下足のおじいさんといった仲間が、そのほかにも三、四人はきっとくる。そして車夫の松さんと、迎えにくる女中と、あんぽんたんと、それだけが、あまり上等でないおしるこを振舞ってもらう。

 あたしは「長吉」という、まっ黒な古人形を持っている。長吉はねずみちりめん無垢《むく》の上衣《うわぎ》、緋《ひ》ぢりめん無垢の下着、白の浜|縮緬《ちりめん》のゆまき、緋《ひ》鹿の子のじゅばんを着ている。それらは古びきっているが、祖母が江戸へ来てから新らしく縫って着せたものだ、祖母はその長吉人形を抱いて十九の年に下向したのだ。
 なんで江戸まで出てきたのかというと、疱瘡《ほうそう》を病《わず》らっているとき、あんまり許嫁《いいなずけ》の息子とその母親が、顔を気にして見舞いに来るので、ある日、赤木綿の着物に、赤木綿の手拭で鉢まきをし熱にうかされたふりをして、紅提灯をさげて踊り出し気の弱い許嫁|母子《おやこ》を脅《おど》かして、自分の方から愛想ずかしをさき廻りにしてしまった。こんなところは面白くないと、江戸の兄をたよって出て来たのだった。小りんという名も、よい容貌
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