《きりょう》も疱瘡でお安くなったというのと、屋寿《いえのことぶき》と祝って、祖父と家をもつときに取りかえたのだ。
祖父は九歳の年に、他《ほか》の子供たちと一緒に、長い年期で大丸呉服店へ小僧《でっち》奉公に下ったのだ。父親はもう亡《なく》なっていた。足弱は三人ずつ、三方荒神《さんぽうこうじん》という乗りかたで小荷駄馬へ乗せられて来たのだ。子供の旅立ちを見送りに来た親たちに、顔を見せると、すぐに桐油《とうゆ》布を被《かぶ》せてしまって、子供たちに里心を起させないようにしたという、みじめさだ。父親に早く別れなければ、祖父もそんな辛棒が出来たかどうか、祖父の母も手離しはしなかったであろう。彼女はそのまま、九ツで江戸へよこした息子に逢わないで死んだのだ。その女《ひと》は、あきらめきった悲しい手紙を息子へよこしている。
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残暑つよくおはし候へども、いよいよ御無事にお勤めなされ候や嬉しくさつしまゐらせ候。私も五月末つかたより病気にて、大きにこまり入申候、なれども、二、三日づつはよひ日もあり、またまたあしきこともおほく御座候へども、当月に相成り、いつかう少々もたへまなく打ふし居申候。命の限りはわかり不申候へども、まづ今の病気の様子にては、あまり長いきも出来不申と心得、もはや、ていはつ(剃髪)いたし、なむあみだ仏のみ心がけふして居申候。しかしながら、このたびは栄吉が至つてていねいに世話しくれ候ゆへ、何も不自由もなし、誠に嬉しく仕合に存候。
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こんな手紙を見た、年期中の親孝行な忰《せがれ》はどんな心持ちであったろう。そうした習慣《ならわし》が、祖父を辛棒つよい、模範的な町人にしてしまったのであろう。祖父の母は歌人《うたよみ》で、千町《ちまち》といったというのだが、千町とは聴きあやまりであったのか、千蔭《ちかげ》の門人にその名はないという。祖父も手跡はよく、近所の町の祭礼の大幟《おおのぼり》など頼まれて書いた。
そうした優しい男と、生れた時に祝ってもらった、京人形長吉を抱いて、振袖で、通し駕籠《かご》で江戸まできて、生涯に一度、また通し駕籠で郷里を訪れただけの祖母との新|世帯《しょたい》は、それでも琴瑟《きんしつ》相和したものと見えて、長吉のしめている帯は、祖父が仕立て、時の将軍様のもちいた錦《にしき》のきれはじであり、腰にさげている猩々緋《しょうじょうひ》の巾着《きんちゃく》は、おなじく将軍火事|頭巾《ずきん》の残り裂《ぎ》れだという。その時の将軍は十一代徳川|家斉《いえなり》であろう。奢侈《しゃし》を極めた子福者、子女数十人、娘を大名へ嫁《か》さした御守殿《ごしゅでん》ばかりもたいした数だという。後に大御所とよばれ、徳川幕府をひへいさせた近因だともよばれたほど、派手な時世だった。
アンポンタンはこの祖父《おじいさん》の歿後《ぼつご》、母が嫁して来たので、生きていた日は知らないが、善良な小市民の見本であったらしい。長い間には、気がさな細君に、どんなにハラハラさせられたかしれないであろう。水野|越前《えちぜん》の勤倹御趣意《きんけんごしゅい》のときも、鼈甲《べっこう》の笄《かんざし》をさしていて、外出するときは白紙《かみ》を巻いて平気で歩いたが、連合《つれあい》卯兵衛が代ってお咎《とが》めをうけたのだ。
小りんさんが卯兵衛|旦那《だんな》の、浮気の穴を探しだしたゆきさつは面白い。初春のことで、かねて此邸《このうち》だと思う、武家の後家《ごけ》の住居をつきとめると、流していた一文|獅子《じし》を引っぱってきて、賑わしく窓下で、あるっかぎりの芸当をさせ、自分は離れた向う角にいた。近所からあつまった見物や子供たちはよろこんで騒ぐので、思わず卯兵衛さんが顔を出し、目的の女も顔を見せた。そこで騒ぐのでも訪れるのでもなく、小りん女房はニッコリと帰って来てしまうという手だ。卯兵衛さんの閉口したことはいうまでもなかろう。
二人の間に二人の男の子があって、上は(前出テンコツサン)出走人となってしまった。わたしの父はいたずらッ子で、お母さんを困らせようとして、叱られたときに、大事にしていた長吉人形の前髪と、奴《やっこ》さんと、ジジッ毛を、鋏《はさみ》ではさんでしまった。大きくなってからも、両親が蔵の縁の下に、金を埋てあるのを、いつの間にか虎太郎五十両拝借と書いた、附木《つけぎ》一枚を手形がわりにして持っていったりしたことを、風通しのよい、青い林檎《りんご》の実ったのが目のさきにある奥二階の明り窓のきわで、小粒《こつぶ》や二朱金《にしゅきん》を金盥《かなだらい》で洗ったり、糠《ぬか》袋のような小さい麻の袋に入れかえるとき、そばにかしこまっているアンポンタンに、
「いたずらもせぬような男の子はだめだ。」
というふうなことを言った。町ではのれん[#「のれん」に傍点]をはずす忙しい夕暮れかた、褄《つま》をとって、小路の角に祖母は時折|佇《たたず》んで、どこともなく眺めていた。祖母の箪笥《たんす》の引出しには、そっくり手のつかない、男ものの衣服が、したおびまで揃えてしまってあるのを、誰も気がつかないふりをするのだった。自分の死後の白小袖もちゃんと羽二重でつくってある人だった。見すぼらしくしてかえる年老いた息《こ》を心に描いていたものと見える。そんな時、あわれげな人が通ると、懐に入れて出た小金を、みんな、その人の掌にあけてやってしまうのだった。
忰《せがれ》虎太郎はあたしの父の若いおりの名で、祖母が老てからは実によく孝養した。
小りんさんは檀家頭《だんかがしら》なので、お寺へゆくと、和尚たちが心置きなく、
「御隠居さんはこの位までかな。」
と畳へ米《よね》という字を書くと、坊主は金がほしくなったので、ひとの葬式を待っていると笑ったが、八十八歳の三月、明治天皇銀婚の御祝いに、養老金を頂いて、感激して、みんなにお赤飯をふるまい、ずらりと並べて箸《はし》をとらせ、見ていて死ぬともしらずに死んでいった。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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