れていたのでもある。
 奥蔵前の、大長火鉢をかこみ、お夜食のすんだ行燈《あんどん》の許《もと》の集りは、八十八で死ぬ日まで祖母が中心だった。ある年は、行燈の影絵を写してよろこんだ私だった。ある年は、小切れをもらってお手玉をつくる小豆《あずき》を、お盆の上で選《よ》っていた。ある年はお手習いしていた。またある年は、燈心を丸めて、紙で包んだ鞠《まり》を、色糸で麻の葉や三升《みます》にかがっていた。ある年は、妹たちときしゃご[#「きしゃご」に傍点]をはじき、ある年はくさ草紙を見ていた。母はつぎものをする時もある、歌舞伎(芝居雑誌、二六通や水魚連《すいぎょれん》という連中から贈ってきた)の似顔絵を見ている事もあるが、かき餅《もち》を焼いたり蕎麦《そば》がきをこしらえてくれたりした。女中たちは雑巾《ぞうきん》をさしたり、自分のじゅばんの筒袖をぬったりした。
 思えば、そういう時に、祖母は修身談をきかせたのであった。だが、それが、どんなに面白かったろう。後にきく種々《さまざま》な修身談は、はじめから偉そうに、吃々《きつきつ》と、味のない、型にはまりきったことをいうのばかりだ。それは、語るものが、自
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