立廻りは、いくつ踏んで、トントントンとこうきまると、棒をふりまわして棚のものを破《こわ》しても叱《しか》らない。わからないところがあると、おもよどんにくっついていって楽屋から見学だ。いつまでたってもコツののみこめない下廻りを見ると、おとなって、なんて物覚えが悪いんだろうなんて生意気にも思う。
 左団次の、新富町の家の稲荷《いなり》祭りなんていうと、おしょさんは夢中だ。それでもきまり[#「きまり」に傍点]が悪いので、むこうにゆくと子供|衆《しゅ》たちが大|悦《よろこ》びで――なんていっている。
 現在《いま》の左団次はアンポンタンとおなじくらいだから初舞台から知ってるわけだ。新富座の『和田合戦』の佐々木小次郎だったか、まんまるく大福餅《だいふくもち》のようなのを覚えている。その後明治座時代の、少年期の彼はへたくそ――だが、一体に少年期に大成するものは、早くのびが縮まるようだ(私は彦三郎や、寿三郎を、後に異なる味をだす役者だといって、みんなに、まだですか、だいぶゆっくりだが、まだ見どころありですかなんて笑われるが、私はまだだと言っている)。左団次の今日あるを少年期の時誰がいいあてたろう、自
前へ 次へ
全18ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング