は、今までになかった色彩《いろどり》をそえたのだった。それが人気にあった。しかも中洲《なかず》は開けたばかりですぐ近く、前の川の下である。橋をわたれば葭町《よしちょう》の花柳場《さかりば》があり、いんしんな人形町通りがあり、金のうなる問屋町にとりまかれて、うしろには柳橋がひかえている。ずっと昔、浅草猿若町へ、三座がひけぬ前の、葺屋町《ふきやちょう》、堺町《さかいちょう》の賑いをとりかえしたかの観を呈した。もともと千歳座があったが、中芝居《ちゅうしばい》であり、人気のあった中島座は小芝居ですでに焼けて亡《ほろ》び、中洲に真砂座《まさござ》があっても、歌舞伎の稽古《けいこ》芝居か、新派であったので、明治座はたいした人気となった。
 それに、そのころ尾上一家の細かい芸よりも、豪宕《ごうとう》な左団次(今の左団次のお父さん)が時流に合って人気を得ていた時で、その左団次が座頭《ざがしら》であり、団十郎が出動し、福助(今の歌右衛門)が女形《おやま》だというので、左団次|贔屓《ひいき》の力瘤《ちからこぶ》は大変だった。
 二絃琴のおしょさん芦須賀さんは、その左団次が、若い時からの岡惚《おかぼ》れだと
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