のれん」に傍点]口がある。長四畳の縁は台所の後までついていて鉢植ものの棚と、箱庭と金魚鉢の小庭がある。庭口から女中さんが厠《ごふじょう》へくるときは、外で下駄をぬいでくるほど小庭の中はきれいで、浜でとれる小貝や小砂利が磨いてしいてある。外は紺屋《こうや》の張り場だった。塀外に茄子《なす》の花が紫に咲いて、赤|紫蘇《しそ》のほ[#「ほ」に傍点]が長く出ていた。
 外《おもて》の窓の部屋に、硝子《ガラス》戸の戸棚と小引出しがずっとならんでいたが、おしょさんの連合《つれあい》の商業《しょうばい》は眼鏡のわくとレンズを問屋へ入れるだけで、商品が量《かさ》ばらない商業だった。時々|下職《したじょく》が註文をうけに来ていた。連合は開港場の横浜で手びろくやっていた、派手な商館相手の商人だったが、おしょさんのために逼塞《ひっそく》したということだった。らっこのトルコ型の帽子に、ラクダの頸《くび》巻きをして、外国人のような高い鼻をもった大きな人だったが、家にいる時は冬は糸織のねんねこを着、夏は八端《はったん》の平ぐけを締めて、あんまり話はしないが細かく気のつく人だった。
 おきんちゃんのうちも日蓮宗狂だが、此家《ここ》の二人もそうだった。長四畳には帝釈様《たいしゃくさま》の髭《ひげ》題目の軸がかかっていて、お会式《えしき》の万燈《まんどん》の花傘の、長い竹についた紙の花が丸く輪にして上の方にかかっている。軸の前の小机には、お燈明《とうみょう》やら蝋燭《ろうそく》台やら、お花立やらお供物《もりもの》の具や、日朝上人《にっちょうさま》のお厨子《ずし》やら、種々《さまざま》な仏器が飾ってある。
 おしょさんは、その部屋の、真中の柱に、長い柱鏡のかかっている前に、緋《ひ》の毛せんを敷いて二面の二絃琴にむかって座っている。すべての小道具は、燦然《さんぜん》とみな磨かれて艶々《つやつや》している。座ぶとんの傍に紫檀《したん》の煙草盆があって、炉扇《ろせん》でよせられた富士山形の灰の上に香《こう》がくゆっている。二面の二絃琴の間には、漢方医がもたせてあるいた薬箱が、丁度両横から押出すようになっていて具合がよいので、薄い横とじの唄本《うたほん》をおくためにおかれてあった。六ツばかりある引出しには、絃《いと》や、小鋏《こばさみ》や、懐中持ちの薬入れに入れた、絃に塗る練油《ねりあぶら》などが入れてあった。おじさんは、おしょさんのために、子供たちの琴の譜をさし示す銀の細い、消息子《しょうそくし》のような棒をつくらせてくれたりした。
 おしょさんが髱《たぼ》をかきつけている巧《うま》さ――合せ鏡で、毛筋棒《けすじ》のさきで丸髷の根元を撫《なで》ている時|鬘《かつら》のように格好のいい頭を、あんぽんたんは凝《じっ》と見つめていた。七日目《なぬかめ》でも結いたてよりきれいで格好もよかった。私は夏の日、日盛りを稽古にゆくが、おしょさんの邪魔はしなかった。おしょさんが寝ていても、お客様があっても、髪結いさんが来ていても、お湯にいってきてからでもお化粧がすんで、さあはじめましょうよといわれるまで、幾時間でも、待てば待つほどおとなしくよろこんでいた。なぜなら、おしょさんのうちには、くさ双紙《ぞうし》の合巻《ごうかん》ものが、本箱に幾つあったかしれない。それがみんな、ちょいと何処《どこ》にもあるようなのではなかった。品も新らしいように奇麗で、みんな初版|摺《ず》りだったから、表紙絵の色|刷《ず》りも美事だった。
「ヤッちゃんは大事に丁寧に見るから。」
 おしょさんは誰も他に人がいないと、秘蔵な『田舎源氏』まで出して見せてくれた。
「ヤッちゃんは絵を見るばかりじゃない、ちゃんと読むんだからな。」
 おじさんも同感であるといった。だから向うでも長い日のうちには、私は半日いようと邪魔にならない存在になって、ちょいとした留守番もする。そこらにのそのそ[#「のそのそ」に傍点]していても、猫とおんなじ位の身うちあしらいだった。ある時おじさんがうんうん[#「うんうん」に傍点]いって押入れの葛籠《つづら》を引っぱりだして暑いのに何をはじめたんですとおしょさんが小言をいった。
 古い錦絵《にしきえ》――芝居の絵を沢山に張った折本《おりほん》を、幾冊かだしてくれた。私の家にもそれらはいくらかあった。だが、ここのように系統だって集めたものではない。夫婦は熱心に、これはなんという役者で誰の弟子、当り芸はなにで、こんな見得《みえ》をした時がよかったとか、この時の着附けはこうだとか、誰の芸風はこうで彼はこうと、自分たちの興味も手つだってよく話してくれた。
 小伝馬町の古帳面屋の店蔵《みせぐち》の住居の二階で時折見かける、盲目《めくら》で坊主頭《ぼうさん》のおばあさんが、おしょさんのうちにも時々来てとまっていた
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