。
紺ぽい麻の単物《ひとえ》を着て、唐繻子《とうじゅす》の細い帯をキチンとしめている盲目のお婆さんは、坊主頭でもいきな顔立ちだった。彼女は縁側にちかい伊予簾《いよす》のかげに茵《しとね》を敷いていて――縁側には初夏ならば、すいすいと伸びた菖蒲《しょうぶ》が、たっぷり筒形の花いけに入れてあったり、万年青《おもと》の鉢があったり石菖《せきしょう》の鉢がおいてあったりした。おばあさんは長刀《なぎなた》ほおずきを鳴らすのが好きで、
「おッさん、あっしにも一本おくれよ。おやおや、こりゃばかにいいんだね。」
なんて、楽しんで、さきを切ってもらって器用に鳴らした。丈《たけ》が二寸からある、長刀《なぎなた》ほおずきは、その時分でも一本一銭五厘から二銭位した。
その坊主頭の盲目のおばあさんが、キンボウとヤイチャンを前にならべて、銹《さび》た渋いのど[#「のど」に傍点]で唄の素稽古《すげいこ》をする。そばで聞いていて二絃琴の唄はすっかり暗唱しているのだ。おッさんの――おしょさんというのがそうきこえる――あすこんとこは巧《うま》いね、好《い》い節《ふし》だなんていう。この坊さん昔はよっぽどそれ者だったのに違いない。横網河岸《よこあみがし》の備前家《びぜんさま》(今の安田公園の処)のお妾《めかけ》お花さんが、毎日|水門《すいもん》から屋根船を出して、今戸河岸《いまどがし》の市川権十郎《かわさきや》の家へいったのでお家騒動が起り、大崎の下邸《しもやしき》へ移転するという噂《うわさ》から、この坊さんもそんなような前身で、大崎の下邸には由縁《ゆかり》のお墓もあるといった。
「御前様《ごぜんさま》はお美しい方だったね、殿様が知事様におなりになった時、御一所にお立《たち》になるので両国の店の前で、ちょいと御挨拶もうしあげた時見上げた事があるけれど、大きなお眼で、真っ黒なお髪に、そりゃあ鼈甲《べっこう》の笄《こうがい》がテラテラして、白襟に、藍《あい》色の御紋附きだったけれど、目が覚めるようだった。」
とおしょさんもいった。両国の店ってなあにと聞くと、
「困ったねえ。」
と母娘《おやこ》して笑った。おしょさんの家《うち》の軒燈《けんとう》には山崎《やまざき》としてあるが、両国の並び茶屋の名も「山崎」だったと坊さんのおばあさんがいった。
あんぽんたんの好奇心は拡大《ひろげ》られた。並び茶屋を出したおしょさんの若い時分はどんなだろう、盲目のおばあさんの、大名のお部屋さま時代はどんなだろう。そこに、くさ草紙《ぞうし》の世界が現われ綿絵の姿が髣髴《ほうふつ》とした。田之助《たのすけ》が動き、秀佳《しゅうか》が語る――
「ヘイ、お暑う、伝吉でございます。」
芝居茶屋の若い衆――といっても、もう頭の禿《はげ》ている伝さんが、今戸《いまど》のおせんべいを持ってくる。
「いい香《にお》いだね。」
おしょさんは袋をあけて見ながらいう、そこのおせんべいは、持ってくる時間をいって、頼んで焼いておいてもらうのだから、ほんとの親切を悦《よろこ》んですぐお茶を入れさせる。
「こんどはひとつどうぞ。」
芝居の話と伝さんの娘の話をして、さんざい袋をもらってかえる。と、入れちがいに、
「へえ、伝さんが来ましたか?」
と女中さんと話ながら清《せい》さんが入って来た。伝さんとおなじの、黒い、麻の着物の尻《しり》はしょりをおろして、手ぬぐいで、麻裏草履を穿《は》いて来た足前《つまさき》をはたいて、上って来て、キチンとお辞儀をした。
「お暑うございますな。」
茶献上《ちゃけんじょう》の帯の背にはさんだ白扇をとって、煽《あお》ぎながら、畳んだ手拭の中をかえして頸《くび》を拭《ふ》いた。小判形の団扇《うちわ》が二本、今戸名物、船佐《ふなさ》の佃煮《つくだに》の折が出される。
「川崎屋までまいりましたから、これは私のわざっとお土産《みやげ》で。」
清さんの兄貴は、川崎屋権十郎の古い男衆だった。
こういう人たちは、中村座が閉場《あけ》ば中村座の何屋へ、新富座ならば何処《どこ》と、三、四軒の芝居茶屋を助けもするが、歌舞伎の梅林《ばいりん》とか三洲屋とか、一、二の茶屋で顔のうれている男衆たちだった。
「毎年|是真《ぜしん》さんでござんすから、今年は河竹さんのにお頼みいたしまして――」
それは団扇の絵のことだった。河竹さんとは、本所《ほんじょ》に住む黙阿弥翁《もくあみおう》のことで、二人娘の妹さんが絵をかき、姉さんはお父さんの脚本のお手伝いをした。
おしょさんの家《うち》には、そうした団扇に虫がつかないように、細い磨竹《みがきだけ》に通して、室《へや》の隅に三角に、鴨居《かもい》へ渡してあった。
「おしょさん、今年のお浴衣《そろい》は、大層|好《い》いっておはなしですから、夜《よ》芝居で、お浴衣
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