。根下《ねさが》りの丸髷に大きな珊瑚珠《さんごじゅ》の簪《かんざし》を挿し、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》をさしていた、ことさらに私の眼についているのは、大きくとった前髪のあまりを、ふっさりきって二つにわけ、前額《ひたい》の方へさげている。これは下町の娘たちはみんなそうしていたが、すこし大きくなると、も一つ奥の、髷《まげ》の横前へ、分けないで片っぽだけにして毛のきりめ[#「きりめ」に傍点]をゾッキリと揃えて曲げておく――男の小姓髷の前髪のように――その風俗が四十位の女の人がしていておかしくないほど、パラリとした顔立ちの、派手者《はでしゃ》だった。
秀造さんは私の老母《はは》にいわせると、伊井蓉峰《いいようほう》の顔を、もっと優しく――優しくの意味は美男を鼻にかけない――柔和《にゅうわ》にしたようなと言っている。私の眼には文壇では里見さんを大柄にして、ドッシリと落ちつかせ、ソツなく愛嬌《あいきょう》をもたせた面影《おもかげ》が残っている。
金瓶大黒はそうした時代の空気につつまれ、そしてまたその時代のある空気をつくっていた。高位高官の宿坊であり、鬼の金兵衛さんがパリパリさせていた楼《みせ》ではあり、そこへこの新智識の才子が大事の娘の恋婿である。言うことに行なわれないことはない。吉原の改革はズバズバと行われた。その廓《さと》の権者《きれもの》が日影者になったのだから、吉原の動揺は一通りではなかったろう。ここで私に分らないのは、土地のためにならない事をしたのならば、土地のものがこぞって彼をかばうわけはないから、この税金費消事件には何か綾がありそうに思われる。後に金瓶大黒は娼妓《しょうぎ》も二、三人になり、しがなくなって止めたそうだが、浅草観世音仁王門わきの弁天山の弁天様の池を埋めたり、仲見世を造ったり、六区に大がかりな富士山の模型をつくったりした。公園事務所長は初代が福地桜痴《ふくちおうち》居士《こじ》、二代目が若い方の金兵衛さんだときいた。
秀造さんは蔵の二階にかくまわれたのだ。階下《した》は祖母の住居になって、さしかけへ赤ん坊の私と両親がいたわけだ。そんなところへよく逃げこんだものだが、隠密《おんみつ》がくると(隠密とはスパイ)、父はわざと蔵の階下へ通して話をするので他の者がハラハラしたという。この裁判は勝訴になったのだそうだ。そんなばかな話もあるまいが、私の老母《はは》はうろ[#「うろ」に傍点]覚えでこんな事をいっている。
裁判官が代言人の父に「では、それだけの金をどうしてつくる。」――保証するという意味をいうのであろう。
父の答えがふるっている。「私の母はあの辺で有名な金持ちでありますからおしらべになればわかります。私は母の金をかりて納めます。」
裁判官「さようか。」
嘘《うそ》でない、それですんだのだといっているが、そんなばかなはずはない。それに吉原の方では、金は吉原から出して決して不自由をさせないからと言って来たが、とうとう出さないで済んだといっている。しかし父は秀造さんを自首させたそうだ。すこしばかり未決にいて放免になったがこの事件は被告が無罪になるまでにはかなりの骨折だったので、吉原では私の父でなければならないように大事にした。
またその頃でもあろうか、吉原に娼妓の自由廃業があった。これは恥かしい事に父が楼主の方の味方をして勝たせた不名誉な事件だ。勝ったときくと、全国の女郎屋からおなじような訴訟を頼んできた。母は欲張って商業繁昌《しょうばいはんじょう》だとよろこんだが、父は断わって、あれは、あの事件が最後になるもので、もう法律が変るといって諭《いまし》めたそうだ。私はいまこれらの事をよくきいておかなかったのを悔《くや》んでいる。娼妓解放と、この自由廃業とのことについて耳にとめておいたらば、もすこし報告的なことが書けたであろうに――
ともあれ金兵衛さんの生活は豪華だったものに違いない。私がもっている古裂《ふるぎ》れに、中巾《ちゅうはば》の絹縮みに唐人が体操をしている図柄の更紗《サラサ》がある。それを一巻《ひとまき》もって来て、私の着物の無垢《むく》に仕立たのも金兵衛さんの秀造おじさんである。六代目菊五郎の幼時にも、横浜からおなじ柄の着物をもらったというので、いつぞや裂地《きれじ》をくらべて見たが、秀造おじさんの手に入れたのの方が上等品であった。その他《ほか》に、好事《こうず》な手だんすだとか、古い竹屋町裂《たけやまちぎ》れでつくった茶ぶくさ入れだとかみな大名道具であった。私の父はよくいった。他人の泣きを悦《よろ》こぶ不浄な銭《ぜに》で買ったのだと。――
秀造さんの兄弟は、かなり有名な人たちであった。沼間守一《ぬまもりかず》という刑法学者、銀行家の須藤、代言人の高梨哲四郎――この人は長髪で騎馬へ乗り歩くの
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