う》を頼んでいるものもあった。私はよく言われた、お前は、書籍《ほん》ばかりすきだと、ああいう人になるよと。
小伝馬町の、現今《いま》電車の交叉点《こうさてん》になっている四辻に、夕方になると桜湯の店が赤い毛布《ケット》をかけた牀床《しょうぎ》をだした。麦湯、甘酒、香煎《こうせん》、なんでもある。このごろの芝居ではお盆でだすが、一人だと茶台《ちゃぶだい》――真中に穴のあるものでも出した。その廻りには、煎《い》りたて豆だの、赤に紫の葡萄《ぶどう》の絵を描いた行燈《あんどん》のぶどうもちだの、飴《あめ》やが並んだ。金米糖《こんぺとう》やもあった。金花糖やも人形町に店があって、招き猫は大小となく出来ていた。噛《かじ》るとガランドウとムクとあった。廻り燈籠《どうろう》や、ほおずきやが夜の色どりで、娘たちが宵暗《よいやみ》にくっきりと浮いて匂《にお》った。
浴衣《ゆかた》と行水《ぎょうずい》が終日《いちにち》の労《つか》れを洗濯して、ぶらぶら歩きの目的は活動もなくカフェもない、舞台装置のひながたと、絵でいった芝居見たままの、切組み燈籠《どうろう》が人を寄せた。
横山町や、薬研堀《やげんぼり》あたりの大店では荒い格子戸の、よく拭き込んだのをたてて、大戸を半分だけおろして、打水をして見せていた。わざと店はあまり明るくはなかった。そして店はキチンと取りかたづけられて、誰も――小僧一人いはしなかった。そういう家の前を離れると、すぐ傍が黒い蔵であったり、木口のよい板塀であったりして、天水桶《てんすいおけ》や、金網をかけた常夜燈《じょうやとう》が灯《とも》っていたように覚えている。日本橋にはそういう古風なところが多く、いつまでも残されていた。
燈籠の中味は、背景も人物も何もかもが切りぬいた錦絵《にしきえ》なのである。三枚つづき五枚つづき、似顔絵のうまい絵師のが絵草紙屋《えぞうしや》の店前にさがると、何町のどこでは自来也《じらいや》が出来たとか、どこでは和唐内《わとうない》の紅流《べになが》しだとか、気の早い涼台《すずみだい》のはなしの種になった。そしてよく覚えていないが、脚光《フットライト》などの工合もうまく出来ていた、遠見へは一々上手に光りがあててあった。曾我の討入りの狩屋《かりや》のところなどの雨は、後に白滝《しらたき》という名で売出した、銀紙のジリジリした細い根がけ(白滝として売出したのは、今の左団次《さだんじ》のお父さんが白滝とかいう織姫になった狂言の時だったと思う)を、上から下へ抜いて、画心に雨を面白く現わしたりしていた。白い菅糸《すがいと》(これもバラバラした根がけ)でこしらえたのもあった。
何処《どこ》の家で、今年は素晴らしい切り組みが出来たと噂《うわさ》されるほどなので、なかなか手を尽して、横長角《よこながかく》な遠見を、深くせまくした、丁度舞台の額縁《がくぶち》の通りなのが、三面ある家も、四角にして四面あるうちもある。一幕目二幕目と続いたのや、または廻り舞台のつづきや、一番目の呼物と中幕と、二番目のを選んだり、更にまたその家の贔屓《ひいき》役者の当り役ばかりを選んで幾場もつくったりした。前に言ったような、動かして見せるのではなく、三尺からのものを四ツも五ツも飾って見せるのもあった。職人衆のうちのは景気よく明《あけ》っぱなしで、店さきへ並べて、奥の人たちも自慢そうに簾《すだれ》のかげで団扇《うちわ》づかいをしながら語りあっているのもあった。その上にも景気をつけて新内《しんない》をやらせたり、声色《こわいろ》つかいを呼込んでいるのもあった。
絵双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきにたつ心と、劇《しばい》好《ず》きと、合せて絵画の観賞者でもあるのだ。
子供というものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである。あんぽんたんの幼心にしみついたのは、前にも書いたかもしれないが、太胡《たこ》さんという、何か不平を蔵していたらしい酒のみの壮士が、私がほおずきをふくんでいるのを見て、たった一言激しくたしなめたことがある。それからフッツリほおずきを鳴らさない、器用に何でも鳴るのだが――出たての空豆の皮などを、ついふッと吹きはするが、すぐ苦さがこみあげてくる。も一つは父のいったことばで、ある時、父はしみじみと、幼い私に言うような事でない言葉を洩《もら》した。よほど胸につまっていたのであろう。
「四民平等の世の中なのに――俺《おれ》はいけない。なあんだ、当り前だと思いながら、情《なさ》けないことに町人|根生《こんじょう》がぬけないのだな、心ではそう思いながら、つまらない奴に、自然と頭が下がりやがる。甚《ひど》いもので、代々植付けられて来た卑屈だ。いめいましいが理屈じゃどうにもならない。お前なんぞは、そこへゆくと、生れた時から自由の子だ、どんな奴にも、頭ぁさげるな、おんなじ人間だぞ。」
私は父を愛す。晩年に近く失敗したけれど、それは殆《ほとん》ど父の仕業《しわざ》ではないほど私の知る父とは矛盾した事だった。私の筆はやがて其方へも進んでゆくであろうが、そこでは弁護しないが、父の壮年時代を知り、晩年を知るものは、なにのためにかを考えさせられる。父は後にいった。長く考えていたことを、ふと迷って、そしてまた長く悔ゆると――
父の人格《ひとがら》がすこし変ったのは、中年過ぎて男の子が出来てから、母の狂愛に捲込《まきこ》まれてからだった。私につぶやいてきかせたころは、実に好きな父だった。夜、客のない時、お膳《ぜん》を前にしてチビチビやりながら書籍《しょもつ》を読んでいる。私を前におくのがくせだった。ふと気がついて書物から眼を離すと、おとなしく膳の前に座っている私に、お肴《さかな》をつまんで口に入れてくれた。(それは四つ五歳《いつつ》のころのことだが――)私は父が傍見《わきみ》をしながら猪口《おちょこ》を口にはこんで、このわた[#「このわた」に傍点]が咽喉《のど》につかえたのを見てから、いつも鋏《はさみ》をもって座っていた。
父は私を友達のように、とんでもない場所《ところ》へまで連れてゆく。薬研堀《やげんぼり》のおめかけさんのところへ連れていったまま、自分は用達《ようた》しに出てしまうので、私は二、三日して送りかえされる。ついて来た老婢《ろうひ》が、なにかと告口《つげぐち》をするのに、私は何も言わないので母に大層|折檻《せっかん》されたりした。
またある時は吉原へ連れてゆく。桜の仲之町の道中も、仁和加《にわか》も見た。金屏風《きんびょうぶ》を後にして、アカデミックな椅子《いす》に、洋装の花魁《おいらん》や、芝居で見るような太夫《たゆう》は厚いふき[#「ふき」に傍点]を重ねて、椅子の上に座り前に立派な広帯を垂らしているのを見た。せまい道巾《みちはば》のところへいったら、小さな店に、さびしげにいた黒い白粉《おしろい》をつけたようなお女郎が「おちゃびんだ」とどなって、煙管《キセル》を畳に投げつけたので、私はびっくりして、格子にぶるさがっていた手をはずしてベソをかいた。ある時は芝居につれていった。よわむしな私は芝居がこわくて、大きらいだったのに連れていっては失敗していた。新富座《しんとみざ》に時の大名優九世市川団十郎が「渡辺崋山《わたなべかざん》」をして、切腹の正念場の時、私は泣出したのだそうだ。父は私をかかえて家まで送って来て、折角のところを見そくなったとこぼしていた。そんな事は度々であった。私はかなり大きくなってからでも、芝居茶屋の二階に、ポツネンと、あねさまを飾ったり、ボンヤリ考えたりして一人で居残っていたことが多かった。
それより困るのは撃剣《げっけん》大会というようなところへ連れてゆかれる事だ。私の姪《めい》や甥《おい》がボート選手の古いのをお父さんにもって、その季節《シーズン》に連れてゆかれると、お父さんの熱狂奔走ぶりに悲しくなるといったが、私の父の撃剣の場合もそうだった。小《ち》っぽけな子供なんぞ袖の下にはいってしまって、父は桟敷《さじき》にがんばる。吃驚《びっくり》するような気合をかける。ト、ト、ト、ト、トッ、そら突け! と呶鳴《どな》る。私は縮みあがってしまって、父は殺されはしないかと思った。やがて自分も引っぱり出されてゆく。ゴチャゴチャになると、どれが誰だか分らないので、私は帰れるのかしらとベソをがまんしている。
国会開設前の時流は、三多摩の壮士が竹|鎗《やり》で、何百人押寄せてくるのなんのと、殺伐な空気であったと見える。政談演説会や討論会もよく開かれた。ある折両国の福本という講談席亭で、講談師なのか壮士なのか、あるいは弁士なのか、またはそれらの交りなのかそこの処は記憶が誠にはっきりしていないが、擬国会みたいなものが催うされたらしい。例によって私は父に連れられていった。自由党の人たちが多く来ていたのであろう。あれは中島だよとか、あれは誰だよとか種《いろ》んな名をきいたが覚えてはいなかった。ただ、父と論じあったので板倉中《いたくらちゅう》という人の、赤ら顔の、小肥《こぶと》りの顎髭《あごひげ》のある顔と、ずんずら短い姿と名を覚えている。この時も、正面の桟敷《さじき》にいたが、大きな声をするので私は閉口していた。それに、どこでも呶鳴るので溜息が出た。
父は刀が好きだった。暇があると拭《ぬぐ》いをかけたり粉《こな》を打ったりして、いつまでもあきずに眺めていた。磨《とぎ》に出したりするのも好きだった。燈火の下でやる時もあるが、昼間でも静《しずか》なときには一室を締めきってとじこもっていた。そんな時、母は大きらいで自分からさきに避けた。
「そらお父さんがはじめた、みんな退《ど》いておいでよ。」
私はなんとなしに、父の仕事に興味をもった。よく傍《そば》にいた。父は顎《あご》であっちへいっていろと指し示した。私は室のそとから覗《のぞ》いていると、父は居合を――声もかけずに、すらりと座ったままぬくのを試している。二ふり三振り刀を振って、また惚《ほ》れぼれと見ている。みだれとか、焼刃の匂いとかいうものを教えてもらったのもそのころだ。
私と父との静な問答がはじまる。
「お父さん剣術つかいがいい?」
「うん。」
「絵かきがいい?」
「うん。」
「なにが好《い》いの?」
「お父さんはな、八歳か九歳の時分手習師匠が大変可愛がってくれた。するとな、雷《かみなり》師匠といわれた手習のおしょさんの近所に国年《くにとし》という絵かきがいてな、絵を教えてくれて、これも大変可愛がった。その時分|東両国《むこうりょうごく》に、万八という料理《おちゃ》やがあって、書画の会があると亀田鵬斎《かめだほうさい》という書家《ひと》や有名な絵かきたちが来てな、俺《おれ》を弟子にしようとみんなが可愛がってくれた。その頃の人たちが、紙へかいてくれた絵話《えばなし》のような絵が沢山あったのを、祖父《おじいさん》が丹念にとっておいてくれたのだが、どうしてしまったかなあ。どっちかになっておけばよかったのを、祖母《おふくろ》が、商人《あきんど》がいいといって丁銀《ちょうぎん》という大問屋へ小僧にやられた。」
それがな、といって父は私のおかっぱの頭に手をおいた。
「丁銀のおばあさんも八釜《やかま》しやで、灸《きゅう》が大好きだから、祖母《おふくろ》の気が合ってたんでやられたのだ。」
「では小僧さんでもお灸を据えられたの!」
あたしは大きな父が痛ましかった。私とおなじように、やっぱりお灸を据えられたのかと――そして祖母がよくはなす、
「祖父が丸の内のお出入り屋敷へゆくと、向うから、薬包紙《やくたいし》のように日にやけた小僧が、白い歯をだしてニヤニヤ笑いながら来るので、よく見たら家の息子だった。」
と。
父は色が黒くて菊石《あばた》があったから、この上黒く干しかためた小僧だったら、どんなに汚なかったろうと思った。
――父はよく言った。菊石という号をつけようと思ったが、渓石《けいせき》の方がよかろうと、なんとか葱《ねぎ》という人
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