双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきにたつ心と、劇《しばい》好《ず》きと、合せて絵画の観賞者でもあるのだ。
子供というものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである。あんぽんたんの幼心にしみついたのは、前にも書いたかもしれないが、太胡《たこ》さんという、何か不平を蔵していたらしい酒のみの壮士が、私がほおずきをふくんでいるのを見て、たった一言激しくたしなめたことがある。それからフッツリほおずきを鳴らさない、器用に何でも鳴るのだが――出たての空豆の皮などを、ついふッと吹きはするが、すぐ苦さがこみあげてくる。も一つは父のいったことばで、ある時、父はしみじみと、幼い私に言うような事でない言葉を洩《もら》した。よほど胸につまっていたのであろう。
「四民平等の世の中なのに――俺《おれ》はいけない。なあんだ、当り前だと思いながら、情《なさ》けないことに町人|根生《こんじょう》がぬけないのだな、心ではそう思いながら、つまらない奴に、自然と頭が下がりやがる。甚《ひど》いもので、代々植付けられて来た卑屈だ。いめいましいが理屈じゃどうにもならない。お前なんぞは
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