が蛇の目とおなじであり、口のかたちも似ている。もしもし亀よ亀さんよの唄を、可愛らしい子供の口からきいても、なんだか亀が陰険でいやだ。
 夏の下町の風情《ふぜい》は大川から、夕風が上潮《あげしお》と一緒に押上げてくる。洗髪、素足《すあし》、盆提灯《ぼんちょうちん》、涼台《すずみだい》、桜湯《さくらゆ》――お邸方や大店《おおだな》の歴々には味えない町つづきの、星空の下での懇親会だ。湯屋《ゆや》より、もちっとのびのびした自由の天地だ。まず各自《めいめい》の家が――家並が後景《はいけい》になって天下の往来が会場だ。その時は、もし、お長屋に警官さんがいても、その人もまたほんとの人間にかえって、胸毛を出して、尻をまくりあげて、渋団扇《しぶうちわ》でバタバタやって来会される。おかみさんの肌抜ぎも咎《とが》めなければ、となりのお父さんの褌《ててら》一つなのも当り前なのだ、真に天真爛漫《てんしんらんまん》、更けるほど話ははずむ。何処《どこ》でもする怪談ばなし、新聞がいまほど行き渡らないから旧幕時代の、垢《あか》のつききった「お岩様」で声をひそめている。夜六時すぎてから「お岩様」のはなしをすると怪異があるというのだ。そら引窓があいた! なんて、年|甲斐《がい》もなく妙な声を出すのもある。
 新内《しんない》が来る、義太夫《ぎだゆう》がくる。琴と三味線を合せてくるのがある。みんな下手《へた》ではない、聴《き》き巧者《こうしゃ》が揃っているからだ。向う新道の縁台でやらせている遠く流れてくる音を、みな神妙に聴入っている。生活に幾分余裕があったのでもあろうが、お三日《さんじつ》に――朔日《ついたち》、十五日、廿八日――門に立つ物乞《おもらい》も、大概顔がきまっていた。ことに門附《かどづ》けの芸人はもらいをきめているようだった。女太夫の名残りもあったのだろう。家によっては煙草《タバコ》の火をもらって話してゆくのもあった。琴三味線の合奏は老女が多かった。みなといってもよいほど旧幕臣のゆかりだった。縁日《えんにち》のはずれの方に、小さく敷ものをして、紙がとばないように小石をおいて、お家流の美事な筆跡で、すらすら和歌や詩を書いては、一枚書くと丁寧にお辞儀をする品のよい老女がいた。落泊《おちぶれ》ても手や顔に垢《あか》をつけていなかった。その前にしゃがんで、表札を書いてもらっているものや、手紙の上封《ふう》を頼んでいるものもあった。私はよく言われた、お前は、書籍《ほん》ばかりすきだと、ああいう人になるよと。
 小伝馬町の、現今《いま》電車の交叉点《こうさてん》になっている四辻に、夕方になると桜湯の店が赤い毛布《ケット》をかけた牀床《しょうぎ》をだした。麦湯、甘酒、香煎《こうせん》、なんでもある。このごろの芝居ではお盆でだすが、一人だと茶台《ちゃぶだい》――真中に穴のあるものでも出した。その廻りには、煎《い》りたて豆だの、赤に紫の葡萄《ぶどう》の絵を描いた行燈《あんどん》のぶどうもちだの、飴《あめ》やが並んだ。金米糖《こんぺとう》やもあった。金花糖やも人形町に店があって、招き猫は大小となく出来ていた。噛《かじ》るとガランドウとムクとあった。廻り燈籠《どうろう》や、ほおずきやが夜の色どりで、娘たちが宵暗《よいやみ》にくっきりと浮いて匂《にお》った。
 浴衣《ゆかた》と行水《ぎょうずい》が終日《いちにち》の労《つか》れを洗濯して、ぶらぶら歩きの目的は活動もなくカフェもない、舞台装置のひながたと、絵でいった芝居見たままの、切組み燈籠《どうろう》が人を寄せた。
 横山町や、薬研堀《やげんぼり》あたりの大店では荒い格子戸の、よく拭き込んだのをたてて、大戸を半分だけおろして、打水をして見せていた。わざと店はあまり明るくはなかった。そして店はキチンと取りかたづけられて、誰も――小僧一人いはしなかった。そういう家の前を離れると、すぐ傍が黒い蔵であったり、木口のよい板塀であったりして、天水桶《てんすいおけ》や、金網をかけた常夜燈《じょうやとう》が灯《とも》っていたように覚えている。日本橋にはそういう古風なところが多く、いつまでも残されていた。
 燈籠の中味は、背景も人物も何もかもが切りぬいた錦絵《にしきえ》なのである。三枚つづき五枚つづき、似顔絵のうまい絵師のが絵草紙屋《えぞうしや》の店前にさがると、何町のどこでは自来也《じらいや》が出来たとか、どこでは和唐内《わとうない》の紅流《べになが》しだとか、気の早い涼台《すずみだい》のはなしの種になった。そしてよく覚えていないが、脚光《フットライト》などの工合もうまく出来ていた、遠見へは一々上手に光りがあててあった。曾我の討入りの狩屋《かりや》のところなどの雨は、後に白滝《しらたき》という名で売出した、銀紙のジリジリした細い根がけ(白滝とし
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