て売出したのは、今の左団次《さだんじ》のお父さんが白滝とかいう織姫になった狂言の時だったと思う)を、上から下へ抜いて、画心に雨を面白く現わしたりしていた。白い菅糸《すがいと》(これもバラバラした根がけ)でこしらえたのもあった。
何処《どこ》の家で、今年は素晴らしい切り組みが出来たと噂《うわさ》されるほどなので、なかなか手を尽して、横長角《よこながかく》な遠見を、深くせまくした、丁度舞台の額縁《がくぶち》の通りなのが、三面ある家も、四角にして四面あるうちもある。一幕目二幕目と続いたのや、または廻り舞台のつづきや、一番目の呼物と中幕と、二番目のを選んだり、更にまたその家の贔屓《ひいき》役者の当り役ばかりを選んで幾場もつくったりした。前に言ったような、動かして見せるのではなく、三尺からのものを四ツも五ツも飾って見せるのもあった。職人衆のうちのは景気よく明《あけ》っぱなしで、店さきへ並べて、奥の人たちも自慢そうに簾《すだれ》のかげで団扇《うちわ》づかいをしながら語りあっているのもあった。その上にも景気をつけて新内《しんない》をやらせたり、声色《こわいろ》つかいを呼込んでいるのもあった。
絵双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきにたつ心と、劇《しばい》好《ず》きと、合せて絵画の観賞者でもあるのだ。
子供というものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである。あんぽんたんの幼心にしみついたのは、前にも書いたかもしれないが、太胡《たこ》さんという、何か不平を蔵していたらしい酒のみの壮士が、私がほおずきをふくんでいるのを見て、たった一言激しくたしなめたことがある。それからフッツリほおずきを鳴らさない、器用に何でも鳴るのだが――出たての空豆の皮などを、ついふッと吹きはするが、すぐ苦さがこみあげてくる。も一つは父のいったことばで、ある時、父はしみじみと、幼い私に言うような事でない言葉を洩《もら》した。よほど胸につまっていたのであろう。
「四民平等の世の中なのに――俺《おれ》はいけない。なあんだ、当り前だと思いながら、情《なさ》けないことに町人|根生《こんじょう》がぬけないのだな、心ではそう思いながら、つまらない奴に、自然と頭が下がりやがる。甚《ひど》いもので、代々植付けられて来た卑屈だ。いめいましいが理屈じゃどうにもならない。お前なんぞは、そこへゆくと、生れた時から自由の子だ、どんな奴にも、頭ぁさげるな、おんなじ人間だぞ。」
私は父を愛す。晩年に近く失敗したけれど、それは殆《ほとん》ど父の仕業《しわざ》ではないほど私の知る父とは矛盾した事だった。私の筆はやがて其方へも進んでゆくであろうが、そこでは弁護しないが、父の壮年時代を知り、晩年を知るものは、なにのためにかを考えさせられる。父は後にいった。長く考えていたことを、ふと迷って、そしてまた長く悔ゆると――
父の人格《ひとがら》がすこし変ったのは、中年過ぎて男の子が出来てから、母の狂愛に捲込《まきこ》まれてからだった。私につぶやいてきかせたころは、実に好きな父だった。夜、客のない時、お膳《ぜん》を前にしてチビチビやりながら書籍《しょもつ》を読んでいる。私を前におくのがくせだった。ふと気がついて書物から眼を離すと、おとなしく膳の前に座っている私に、お肴《さかな》をつまんで口に入れてくれた。(それは四つ五歳《いつつ》のころのことだが――)私は父が傍見《わきみ》をしながら猪口《おちょこ》を口にはこんで、このわた[#「このわた」に傍点]が咽喉《のど》につかえたのを見てから、いつも鋏《はさみ》をもって座っていた。
父は私を友達のように、とんでもない場所《ところ》へまで連れてゆく。薬研堀《やげんぼり》のおめかけさんのところへ連れていったまま、自分は用達《ようた》しに出てしまうので、私は二、三日して送りかえされる。ついて来た老婢《ろうひ》が、なにかと告口《つげぐち》をするのに、私は何も言わないので母に大層|折檻《せっかん》されたりした。
またある時は吉原へ連れてゆく。桜の仲之町の道中も、仁和加《にわか》も見た。金屏風《きんびょうぶ》を後にして、アカデミックな椅子《いす》に、洋装の花魁《おいらん》や、芝居で見るような太夫《たゆう》は厚いふき[#「ふき」に傍点]を重ねて、椅子の上に座り前に立派な広帯を垂らしているのを見た。せまい道巾《みちはば》のところへいったら、小さな店に、さびしげにいた黒い白粉《おしろい》をつけたようなお女郎が「おちゃびんだ」とどなって、煙管《キセル》を畳に投げつけたので、私はびっくりして、格子にぶるさがっていた手をはずしてベソをかいた。ある時は芝居につれていった。よわむしな私は芝居がこわくて、大きらいだったのに連れていっては失敗していた。新
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