富座《しんとみざ》に時の大名優九世市川団十郎が「渡辺崋山《わたなべかざん》」をして、切腹の正念場の時、私は泣出したのだそうだ。父は私をかかえて家まで送って来て、折角のところを見そくなったとこぼしていた。そんな事は度々であった。私はかなり大きくなってからでも、芝居茶屋の二階に、ポツネンと、あねさまを飾ったり、ボンヤリ考えたりして一人で居残っていたことが多かった。
 それより困るのは撃剣《げっけん》大会というようなところへ連れてゆかれる事だ。私の姪《めい》や甥《おい》がボート選手の古いのをお父さんにもって、その季節《シーズン》に連れてゆかれると、お父さんの熱狂奔走ぶりに悲しくなるといったが、私の父の撃剣の場合もそうだった。小《ち》っぽけな子供なんぞ袖の下にはいってしまって、父は桟敷《さじき》にがんばる。吃驚《びっくり》するような気合をかける。ト、ト、ト、ト、トッ、そら突け! と呶鳴《どな》る。私は縮みあがってしまって、父は殺されはしないかと思った。やがて自分も引っぱり出されてゆく。ゴチャゴチャになると、どれが誰だか分らないので、私は帰れるのかしらとベソをがまんしている。
 国会開設前の時流は、三多摩の壮士が竹|鎗《やり》で、何百人押寄せてくるのなんのと、殺伐な空気であったと見える。政談演説会や討論会もよく開かれた。ある折両国の福本という講談席亭で、講談師なのか壮士なのか、あるいは弁士なのか、またはそれらの交りなのかそこの処は記憶が誠にはっきりしていないが、擬国会みたいなものが催うされたらしい。例によって私は父に連れられていった。自由党の人たちが多く来ていたのであろう。あれは中島だよとか、あれは誰だよとか種《いろ》んな名をきいたが覚えてはいなかった。ただ、父と論じあったので板倉中《いたくらちゅう》という人の、赤ら顔の、小肥《こぶと》りの顎髭《あごひげ》のある顔と、ずんずら短い姿と名を覚えている。この時も、正面の桟敷《さじき》にいたが、大きな声をするので私は閉口していた。それに、どこでも呶鳴るので溜息が出た。
 父は刀が好きだった。暇があると拭《ぬぐ》いをかけたり粉《こな》を打ったりして、いつまでもあきずに眺めていた。磨《とぎ》に出したりするのも好きだった。燈火の下でやる時もあるが、昼間でも静《しずか》なときには一室を締めきってとじこもっていた。そんな時、母は大きらいで自分からさきに避けた。
「そらお父さんがはじめた、みんな退《ど》いておいでよ。」
 私はなんとなしに、父の仕事に興味をもった。よく傍《そば》にいた。父は顎《あご》であっちへいっていろと指し示した。私は室のそとから覗《のぞ》いていると、父は居合を――声もかけずに、すらりと座ったままぬくのを試している。二ふり三振り刀を振って、また惚《ほ》れぼれと見ている。みだれとか、焼刃の匂いとかいうものを教えてもらったのもそのころだ。
 私と父との静な問答がはじまる。
「お父さん剣術つかいがいい?」
「うん。」
「絵かきがいい?」
「うん。」
「なにが好《い》いの?」
「お父さんはな、八歳か九歳の時分手習師匠が大変可愛がってくれた。するとな、雷《かみなり》師匠といわれた手習のおしょさんの近所に国年《くにとし》という絵かきがいてな、絵を教えてくれて、これも大変可愛がった。その時分|東両国《むこうりょうごく》に、万八という料理《おちゃ》やがあって、書画の会があると亀田鵬斎《かめだほうさい》という書家《ひと》や有名な絵かきたちが来てな、俺《おれ》を弟子にしようとみんなが可愛がってくれた。その頃の人たちが、紙へかいてくれた絵話《えばなし》のような絵が沢山あったのを、祖父《おじいさん》が丹念にとっておいてくれたのだが、どうしてしまったかなあ。どっちかになっておけばよかったのを、祖母《おふくろ》が、商人《あきんど》がいいといって丁銀《ちょうぎん》という大問屋へ小僧にやられた。」
 それがな、といって父は私のおかっぱの頭に手をおいた。
「丁銀のおばあさんも八釜《やかま》しやで、灸《きゅう》が大好きだから、祖母《おふくろ》の気が合ってたんでやられたのだ。」
「では小僧さんでもお灸を据えられたの!」
 あたしは大きな父が痛ましかった。私とおなじように、やっぱりお灸を据えられたのかと――そして祖母がよくはなす、
「祖父が丸の内のお出入り屋敷へゆくと、向うから、薬包紙《やくたいし》のように日にやけた小僧が、白い歯をだしてニヤニヤ笑いながら来るので、よく見たら家の息子だった。」
と。
 父は色が黒くて菊石《あばた》があったから、この上黒く干しかためた小僧だったら、どんなに汚なかったろうと思った。
 ――父はよく言った。菊石という号をつけようと思ったが、渓石《けいせき》の方がよかろうと、なんとか葱《ねぎ》という人
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