くれたのもこの伯母さんだ。ヴィオリンの音《ね》や、ピアノや、オルガンの音をはじめて耳にしたのも伯母さんの住居へとまりにいったからだった。そのころ下町でそんな音色《ねいろ》も、楽器も知っているものはなかった。あんぽんたんは外国の匂《にお》いを、ここではじめて嗅《か》いだのだ。なぜなら神田は学問をする書生さんの巣窟《そうくつ》であり、いまでいうインテリゲンチャの群である。帽子をかむった人なんか、めったに見ない下町ッ子は、通る人がみんな白金巾《しろかなきん》の兵児帯《へこおび》をしめているのに溜息《ためいき》した。夕方は下宿屋の二階三階に、書生さんたちが大勢てすりに腰をかけていた。私は女がそういうふうをしているのを新宿(妓楼)で見たことを伯母さんにはなした。
 南校《なんこ》の原《はら》でバッタやオートをつかまえて、牛が淵でおたまじゃくしを掬《すく》った。従弟《いとこ》とおまっちゃんと三人で、炎天ぼしになって掬ったが、入《いれ》ものをもたないで、土に掬いあげたのはすぐ消たように乾《ひ》かたまってしまった。三人は唾《つばき》をした。川の水に唾をして唾が散れば肺病ではないと、なにが肺病なのかよく知らないのに、幾度も幾度も唾を吐《は》いた。すぐに散ってしまうと手を叩《たた》いて歓声をあげる。
 帰ると盥《たらい》を出して水をあびる。溝《どぶ》に糸みみずのウヨウヨ動いているのを見つけて、家の金魚のおみやげだと掻廻《かきまわ》す。邸町《やしきまち》の昼は静かで、座敷を大きな揚羽蝶《あげはちょう》が舞いぬけてゆく。お砂糖水をこしらえようと砂糖|壺《つぼ》をあけたら、ここにも大きな蝶がじっとして卵をしている――私たちはウワッと叫んだ、なにもかもが珍しいのだった。
 だが、ふと、自分の家の午後も思出さないではない。みんなして板塀《へい》がドッと音のするほど水を撒《ま》いて、樹木から金の雫《しずく》がこぼれ、青苔《あおごけ》が生々した庭石の上に、細かく土のはねた、健康そうな素足を揃えて、手拭で胸の汗を拭《ふ》きながら冷たいお茶受けを待っている。女中さんは堀井戸から冷《ひや》っこいのを、これも素足で、天びん棒をギチギチならして両桶に酌《く》んでくる。大きな桶に入れた麩麺《そうめん》が持ちだされる時もあるし、寒天やトコロテンのこともあるし、白玉をすくって白砂糖をかけることもある。
 ――そのころの人は水の味をよく知っていた。どこの井戸はくせ[#「くせ」に傍点]がある。この水は甘い、あそこのは質《たち》が細かい――女中さんは自慢で手桶のふたをとる。今日のは何処《どこ》のですかおあてになってごらんなさいと――
 金魚も水をとりかえてもらって跳上《おどりあが》っているのであろう。私の鉢のまるっこの子は、大きくなったかしら、背中がはげてきたかしら、目高《めだか》がつッつきゃしないかしら――
「ねえおまっちゃん、弁慶蟹《べんけいがに》ね、なにを食べてるだろう。」
 おまっちゃんもちょっと不安な顔をする。つくばいの吸込みの小さな穴へもぐってしまった弁慶蟹の子が、年々大きくなって、片っぽの鋏《はさみ》だけがやっと穴から出せる位に、吸込みの穴の中で成長してしまった。右の手をだして、穴のまわりの青苔をはさんで食べていたが、もう手のとどくところには苔がなくなっていたのだ。根の赤い、ギザギザのある奇麗な、そして不具な片手が穴の中から差出されると、小さい時分にはよく抓《つま》み出してやった大人たちは、意固地《いこじ》に逃込むのを憎がって、この頃は手をだすのを見つけるたんびにざまあみやがれと言って笑った。子供はその大人を憎んだ。誰もがいないと、おまんまつぶを持っていってやった。好きな沢庵《たくあん》もやった。沢庵を裂いてやるとよく知っていてはさんだ。此方からは見えなくっても、穴の中からは見えるのかも知れない、小さな眼が覗《のぞ》いていたのでもあろう。
 私たちは小さな亀の子をほしがった事がある。壱銭銅貨位のや天保銭位の大きさのを買ってもらって悦んだが、飼《え》に蚯蚓《みみず》をやるので嫌いになった。私は蛇より蚯蚓が厭だ。蛇は下町にはいないから話以上伝説化した恐怖をもちはするが、見たことがないから蚯蚓の方が気味がわるかった。その蚯蚓の太いのを、小さな亀が食べる。しかも、背中を突ッついても石っころのように堅くねむってでもいたようなのが、餌を見ると猛然と首を伸してかぶりつき、掌《て》を拡《ひろ》げておさえる。大きさからいえばあんぽんたんが大蛇にむかったようなのに、蚯蚓の胴中からは濁った血――液《しる》が出てくる。亀の子はお爺《じい》さんのような皺《しわ》だらけな頸《くびすじ》をのばし、口は横まで一ぱいに裂け、冷やかな眼をうごかさずによせている。不思議なことに、後年よく見たのだが、その眼
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