、人力車夫の長家のような、板戸の家《うち》が彼女の巣だった。
更けてはいなかったが戸を叩《たた》くと、床の低い四角い家の上りがまちに藤木さんが寐ていて黒っぽくモゾモゾした。奥の壁の隅に島田髷が小さく後向きに寐ている。にぶい燈火にも根に結んだ銀丈長《ぎんたけなが》が光っていた。壁にはいろいろなものがさげてあったが、芸妓の住居らしい華《はな》やかなものは一品《ひとしな》もなかった。
「あの娘《こ》は疳《かん》のせいか寐出すと一日でも二日でも死んだもののように眠っていて――」
母親は祝いにきてくれたのにと気の毒そうに呟《つぶや》いた。
心の重荷――そんなものが感じられて従姉の苦悩に私は胸をひきしめられていた。この裏家《うち》から高褄《たかづま》をとって、切火《きりび》をかけられて出てゆく芸妓姿はうけとれなかったが、毎日|細二子《ほそふたこ》位な木綿ものを着て、以前《もと》の抱えられた芸妓屋《うち》へゆき、着物をきかえて洗湯にも髪結いさんにもゆくのだと母親が説明した。
とはいえ、そうしたはかない裏は知らず、料亭《ちゃや》の二階へよぶ客は、芸妓と見れば自分から陽気になってくれる。彼女にもよい客が出来かけた。今日は何家《なにや》の裏二階で、昨日《きのう》はどこの離れでと招《よ》ぶ客の名が知れると、妙なことにチンコッきりおじさんが納まらなくなった。前に囲ってくれた旦那と二人して妨害運動をしたりしたが、律気な――鉢植えの欅《けやき》みたいな生れつきの妓《ひと》にも芽が出て、だんだんに繁昌《はんじょう》して来た。一人だちになり、勝気な負ずぎらいな妹もおなじ水にはいって、どうやら抱妓《かかえ》もおけるようになった時、東京中の盛り場で「旦那」とよぶのはあの人だけだといわれた遊び手の、若い大商人と縁を結んだ。
小山内薫氏の書いた小説『大川端』や『落葉』に出てくる木場《きば》の旦那、および多《おおの》さんがこの二人である。多さんとは藤木麻女のことである。
私はついにそこまで達した彼女の子供の時からの苦労をあんまり知りすぎている。だまって苦悩をになってゆく。痩《や》せた、小柄な、あまりパッとしない彼女の芸妓姿を、いたわり撫《な》でたい気持ちで遠くながめていた。アンポンタンは成長するにしたがい家内《いえ》のなかの異端者としてみられていたから、どうする事も出来ないで、抱えの時分、流山《ながれやま》みりん瓶入の贈物《つかいもの》をもってくる彼女の背中を目で撫ていたが、彼女におとずれた幸福は、彼女にはあんまりけばけばしい色彩なので、信実はやっぱり苦労が絶《たえ》ないであろうと痛々しかった。なぜなら、らんまんたる桜の咲きさかる春のような、または篠《しの》つく豪雨のカラリと晴れた、夏のような風情《ふぜい》は彼女にはそぐわなかった。もっと地味で、堅実な愛が、彼女を待たなければ真の幸福とはいえないように思えた。私が彼女にあうことはより遠々しくなった。
放蕩児《ほうとうじ》が金を散じる時の所作《しょさ》はまず大同小異である、幇間《たいこもち》にきせる羽織が一枚か百枚の差である。芸妓のとりまきが一流と二流の相違は、料亭《ちゃや》待合《まちあい》の格式、遊ぶ土地、すべての附合の範囲と広さにおよぼしている。中村鴈治郎《なかむらがんじろう》が東都の人気を掴得《かくとく》しようとすると歌舞伎座から「まだ旦那のお招きをうけないが――」と頼みこんでくる。摂津大掾《せっつだいじょう》が来た、何が来たと東京の盛り場の人たちが大阪でうけるお礼のかえしを、一手に引受けるほど遊びに顔を売った旦那を彼女は旦那にしたのだった。しかも彼女は律気|真面目《まじめ》一方で彼をまもった。
彼女は浜町に住んだ。藤木さん夫婦は妹娘を真《しん》にして柳橋でパリパリの××家のおとっさんおっかさんになってしまった。手拭《てぬぐい》ゆかたの立膝《たてひざ》で昔話をして、小山内さんや猿之助を煙にまいていた。浜町の家には、近くの中洲《なかず》の真砂座《まさござ》にたむろしていた、伊井、河合、村田、福島、木村などの新派俳優の下廻りが、どっちが楽屋かわからないほど入込んでいた。藤井|六輔《ろくすけ》とか小堀誠などは自分の家のようにまめに働いていた。芸妓、各遊芸の家元たち、はなしか、幇間《たいこもち》、集ればワッワッいう騒ぎだった。お麻さんはいつもそれらの後始末ばかりしていたが、彼女は一中節《いっちゅうぶし》の都の家元から一稲の名をもらっていたので、その名びろめを旦那が思いたった時は――彼女に対する日頃の謝意というより自分の道楽の方が勝ったであろうが、二日に渡った盛大な催しを柳橋の亀清楼《かめせい》で催した。仕着せ、まきもの、配りもの、飾りもの、ありきたりな凝《こり》ようではなかった。芦《あし》に都鳥《みやこどり
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