が多かった。
この渡船は、助さんという前の小屋にいた若い船頭さんのために、父がすこしばかり金で手伝ってやってはじめさせた渡しだった。人通りのない父の家の門の柳が、わたし場の目じるしだった。さて、その三人の幕末の残り者が縁近くに碁盤を据えると、汐潮《しお》があげてきて、鼻のさきをいせいのいい押送りの、八丁|艪《ろ》の白帆が通ろうと、相生橋にお盆のような月がのぼろうと、お互が厭《いや》がらせをいいながら無中になっている。父は、島人から村長さんと名づけられているほどのんきで飄逸《ひょういつ》な、長い白い髭《ひげ》をしごいている。木魚の顔のおじいさんはムンヅリと、そのくせゲラゲラと声をださないで崩れた顔を示す。つまみよせたような眼の、キンカン頭の藤木さんは、俳諧《はいかい》でもやりそうな渋仕立《しぶじたて》の道行き姿になって、宗匠|頭巾《ずきん》のような帽子を頭にのせている。そして懐中時計を三十分に一度はきっと出して、ただ眺める。竜頭《りゅうず》をいじって耳へもってゆくしぐさを繰返す――
この碁打ちたち、かたちはさも巧者でありそうだが、だが、ある折、妹の婿の若い、海軍のヘッポコ少尉がこの三人の前で、
「とても駄目です、僕は軍艦《かん》でも、もの[#「もの」に傍点]にならない方の、その中の一番しまいです。」
「まあ、やって見な、おれが対手《あいて》になってやろう。」
父が少尉との最初の盤にむきあってすぐ負けた。若い軍人は言った。
「お父さん負けてくだすったんです、そんなはずはありません。」
「そりゃそうだろうとも、さあお出なさい、こんどは僕だ。」
藤木宗匠が向った。父は変な顔をして黙っていた。勿論チンコッきり宗匠もすぐ負けた。
「妙だね、こりゃおつ[#「おつ」に傍点]だよ、以心伝心《いしんでんしん》、若いものに華《はな》をもたせようとするのかな。湯川|氏《うじ》はそうはいかないぜ。」
「いや、拙者はどうも。」
木魚のおじいさんは目をクシャクシャとしばたたいて、蟇《ひきがえる》のようにゆったりしている。だが、結局はやっぱり負けた。若い少尉はころがって笑った。
「僕より拙《まず》いものがあるなんて――これじゃ碁じゃない……」
「碁じゃないって? 碁じゃない、碁じゃない、こちゃゴジャゴジャだ。」
藤木さんも黄色い長い歯を出して笑った。
しかし、そうしたのんきな生活《くらし》――芸妓屋おとっさんの成功も、藤木さんみずから努力した運ではなかった。彼の生涯に恵まれた幸福は、服従心の強い、優しい妻と娘とをもった事だった。木魚の顔のおじいさんの老妻がいしくもいったことがある。
「親不孝者が、親孝行の子をもつなんて、誠に不思議さね。」
清元《きよもと》と踊りで売っていた姉娘お麻《あさ》に地味《じみ》な客がついた。丁度年期があいたあとだったので、彼女は地味にひいてしまった。その頃の九段坂上は現今《いま》よりグッと野暮な山の手だった――富士見町の花柳界が盛りになったのは、回向院《えこういん》の大角力《おおずもう》が幾場所か招魂社《しょうこんしゃ》の境内へかかってから、メキメキと格が上ったのだ。従って町の雰囲気も違って来た――お麻さんが選んだ妾宅《うち》は、朝々年寄った小役員でも出てゆきそうな家だった。母親は台所のためによばれていったので藤木さんの不服は一方ならずであった。
お麻さんがその妾宅で、鬢髱《まわり》をひっつめた山の手風の大|丸髷《まるまげ》にいって、短かく着物をきていたのも暫《しば》らくで、また柳橋へかえった。こんどは提灯《かんばん》かりの通勤《かよい》だったので、おなじ芸妓屋町に住居をもった。
地味な気性でも若い芸妓である、雛妓《こども》のうちから顔|馴染《なじみ》の多い土地で住居《うち》をもったから、訪ねてくるものもある。見得の張りたいところを裏長屋で辛棒《しんぼう》しているのだから、察してやらなければならないのを、チンコッきりに厭《あ》きはてた父親は、一緒に住まわせなければ、晩にいってその家の棟《むね》で首をくくってやるといやがらせた。事実そうもしかねないほど思い入っているので、世帯《しょたい》を一つにしたが――娘の心は悲しかったであったろう。芸で売った柳橋だとはいえ、一時に負担が重すぎた。私は従姉《いとこ》をたずねていって、暗澹《あんたん》たる有様に胸をうたれて途方にくれたことがある。これが、あのはなやかに、あでやかに見える、左褄《ひだりづま》をとる女《ひと》の背《せびら》に負う影かと――
平右衛門町の露路裏だった。柳橋の裏河岸《うらがし》に、大代地《おおだいじ》に、大川の水にゆらぐ紅燈《こうとう》は、幾多の遊人の魂をゆるがすに、この露路裏の黒暗《くらやみ》は、彼女の疲労《つかれ》のように重く暗くおどんでいる。一番奥の
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