誰もがそうであるように、辛辣《しんらつ》な軽口《かるくち》で自家ざんぶをやる。自分自身で自分をメチャクチャにこきおろして、どうですといったふうに聴手の困るのを痛快がる。みじん見得《みえ》はないようで、そのくせ見得ばりで、それがせめて[#「せめて」に傍点]もの自棄した修飾である。鼻っぱりの強い意気地なしなのである。
寄席《よせ》の高座《こうざ》にのぼる江戸風軽口の話口《はなしくち》をきくと、大概みんな自分の顔の棚下《たなおろ》しや、出来そくなった生れつきのこきおろしをやる。それがみんな本気だと思ったらおめでたすぎる、全部が全部みな徹底した市井《しせい》の聖人だとおもうものもなかろう、とおなじで、生活惨敗者は自己をこきおろして自慰《じい》する。そこまで察してやらないものは、厭がらせばっかりいう人だと鼻っつまみにする。あの時代の藤木さんもそんな風にとられもしたが、家のものたちも彼が小心で正直ものなのは許しきっていた。子供は変なところで対手《あいて》の直情に面してしまうものだから、対手を職業や、その折の境遇で見直したり見違えたりはしない。それにあたしがアンポンタンで無口だったということが、彼
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