ずれ五位に叙せられるからというので無官の太夫という。
 ここまでくるとやっと馴染《なじみ》がある。無官の太夫なら敦盛《あつもり》という美しい平家の若武者で、大概の人が芝居や浄るりや、あるいは稗史《はいし》でよく知っている。もっとも朝散太夫|浅野内匠頭長矩《あさのたくみのかみながのり》、即ち忠臣蔵の塩冶判官《えんやはんがん》高貞もそうである。
 その、従五位下朝散太夫の唐名をもった人が、湯川氏一族、御直参ならずもの仲間の、藤木の先祖の一人。

 藤木一門には、それよりもっと偉《えら》い人物があったのかも知れないが、アンポンタンには見上げるような高い石碑に、××院殿従五位下|前《さきの》朝散太夫なんとかのなんのなんとかと、とても長く彫《きざ》みつけてあった朝散太夫を子供心にすっかり覚えこんでしまったのだった。藤木家の寺院《おてら》は、浅草菊屋橋の畔《ほとり》にあって、堂々とした、そのくせ閑雅な、広い庫裏《くり》をもち、藪《やぶ》をもち、かなり墓地も手広かった。昔はもっと広大《ひろ》かったのであろうと思わせたのは、藤木氏一門のどれも美事な見上げるような墓石が、両側に五十余基も正然《せいぜん》
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