勝川花菊の一生
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)長|茄子《なす》の

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(例)長|茄子《なす》の

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(例)にも[#「にも」に傍点]なんて
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 勝川のおばさんという名がアンポンタンに記憶された。顔の印象は浅黒く、長かった。それが木魚の顔のおじいさんのたった一人の妹だときいても、別段心もひかれなかった。ただ平べったいチンチクリンのおじいさんに、長|茄子《なす》のような妹があるのかなと思った位だった。
 しかし彼女は小意気だった、その時分の扮装《おつくり》が黒っぽかったので、背のたかい細面《ほそおもて》の女《ひと》を、感じから黒茄子にしてしまったが、五十を越しても水極《みずぎわ》だっていた。
 幾年かすぎて、ふとその女《ひと》がはじめて来た日の言葉を思いだした。
「お滝さんにも久しぶりで逢《あ》えて――」
 自分の姪《めい》の家へきて、にも[#「にも」に傍点]なんて変なことをいう――子供の心は単純で、かげりをもった言語《ことば》の深いあやを知らない。およそ、木魚のおじいさんの一族で、あんなに客として歓待されたものはないのにと、無視された母のためにアンポンタンは軽い義憤をもった。
 だが、勝川のおばさんの生立《おいたち》をきくと無理はなかった。彼女としては、女中同様に追廻して使った姪に、さんの字をつけてよぶだけでさえ小癪《こしゃく》にさわる――そうした気風の彼女だった。深川佐賀町の廻船問屋石川屋佐兵衛の妻女――なれのはてではあったが、とにかく代言人長谷川氏の家を訪れてきたのだ。彼女の手許の召使いだった姪は、彼女の添《そば》にいたからこそ売出しの新商売《ニューしょうばい》の人の後妻にもなれたのだ、という誇りをもって――

 勝川のおばさんという名と一所に出るのは佐兵衛さんと、も一人お角力《すもう》という人だった。いま思えば三角関係だったのでもあろう。佐兵衛さんは旦那《だんな》で、勝川お蝶は権妻《ごんさい》上り、関取××は出入りの角力、そして佐兵衛さんはさしもの大資産《おおしんだい》を摺《す》ってしまってもお蝶さんと離れず、角力は御贔負《ごひいき》さきがペシャンコになってしまっても捨てず、だんだん微禄《びろく》はしたが至極平和にくらした。
 海上暴風雨《しけ》のためにいつもは房州へはいるはずの、仙台米の積船《ふね》が、鰯《いわし》のとれるので名高い九十九里《くじゅうくり》の銚子《ちょうし》の浜へはいった。江戸仙台藩の蔵屋敷からは中沢|某《なにがし》という侍が銚子へ出張した。
 中沢という侍は、幕臣湯川金左衛門邦純とならない前の、木魚の顔のおじいさんの姓である。
 浜方は船が一|艘《そう》這入《はい》っても賑わう。まして仙台米をうんと積んだ金船が何艘となくはいってきたのだ。もともとお蔵屋敷の侍《もの》といえば、武士であって半《なかば》町人のような、金づかいのきれいな物毎《ものごと》に行きわたった世|馴《な》れた人が選まれ、金座、銀座、お蔵前などの大町人や諸役人と同様その時分の社交人である。十人衆、五人衆、旦那衆と尊称され、髪の結いかたは本田髷《ほんだまげ》細身の腰刀《こしのもの》は渋づくりといったふうで、遊蕩《ゆうとう》を外交と心得違いをしていた半官半商であった。それらの侍たちや蔵前町人の豪奢《ごうしゃ》を幾度《いくたび》か知っている浜のものは、鯨が上《あが》ったように悦んだ。
 だが、ある夜《よ》の中沢氏の旅宿には、湿っぽい場面が行燈《あんどん》のかげに示しだされた。それは木魚のおじいさんが幼少のころ出奔《しゅっぽん》した、母親がたずねて来たのだった。成長した子供の前へ、恥もわすれて逢いに来た母親は、十二、三の女の子を連れていた。
「それは不義の子である、拙者に縁はない。」
 大体の侍ならそういうであろうを、おろおろ泣いている母親と義妹とを見ると、捨てられた当時を思いだして、自分も泣いた子供心にかえって咎《とが》めなかった。
 江戸入りは三人になったが、厳しい藩邸《やしき》の門はさすがにくぐらせられない。出入りの町家《ちょうか》に預けておくうちに母親は鳶頭《かしら》のところへ娘を連れて再縁した。そこに年頃のあんまり違わない娘があったので、連子は妹とよばれ、おなじように稽古《けいこ》ごとも習わされるようになった。
 この二人娘が姉は踊りで、妹は三味線で売り出して、諸大名のひいきも多くなった。両親は左|団扇《うちわ》のホクホクだったのである。その妹娘の勝川花菊が、アンポンタンが長茄子と見た勝川のおばさんの前身だったのだ。
 人気渡世の、盛りの花菊を、無理にも手生《てい》けにと所望し、金にあかして大家《たいけ》の御内儀《ごないぎ》としたのが廻船問屋石川佐兵衛だった。

 中沢氏が湯川氏となって、遠州お前崎から働きものの二女を連れてくると、一躍して位置のかわってしまった金持の御内儀花菊さんは、働きものらしい娘を、手許《てもと》で召使ってやろうと言出した。湯川老人もその店で仕事をもつようになったので、彼にいわせればなんとも致しかたがなかったのだ。私の母は彼女づきの小間使いに任命された。
 大根おろしのように、身を粉にして動くことを、無益《むだ》も利益もなく、めちゃめちゃに好んだ壮健至極な娘でさえ、ばかばかしいと思ったほど酷《こ》き使った。行処《ゆきどころ》のない身寄りだから逃げてゆかないという信状で、驕慢《きょうまん》の頂上にいた花菊は無理我慢の出来るたけをしいた。無論他の者へも特別優しかったわけではない。
 彼女が芝居見物の日は、前の晩から家中の奥のものは徹宵《てっしょう》する。暁方《あけがた》に髪を結ってお風呂にはいる。髪結は前夜から泊りきりで、二人の女中が後から燈をもっている。他の女中は蒔絵《まきえ》の重箱へ詰めるあれこれの料理にてんてこ舞をするのだった。早くから船は来て(浅草|猿若町《さるわかちょう》にあった三座の芝居へは多く屋根船《ふね》か、駕籠《かご》でいったものである)、炬燵《こたつ》を入れ、縮緬《ちりめん》の大座布団を、御隠居さんの分、隠居さんの分、御新造さんの分と三枚運ぶ。御隠居さんと御《ご》の字のつくのが石川氏の母親のことで、御の字のつかない方のが娘のために引きとられて楽隠居をしていた、湯川老人を捨てたお母さんであった。二人とも向う河岸の、中洲よりの浜町に隠居しているのを誘って乗せてゆくのだった。この女《ひと》たちも花菊夫人におとらぬ気随《きまま》な生活であったであろうが、頭の方は坊主だったから芝居行きに泣き喚《わめ》きはないから無事だが、母屋《おもや》の内儀の方はそうはゆかない。合せ鏡に気に入らない個所でも後の方に見出すと、すぐ破《こわ》して結い直しである。それも髪結いさんが帰ったとなると、撫《な》でつけがうまいので髪のことだけは気にいっているお手許使いの姪《めい》のおたきがよばれるが、もともと機嫌を損じているのだから泣かされるまで幾度も結い直させられる。そうなると芝居なんぞは何時からでもよいとなる。お風呂ははいり直しである。昨夜《ゆうべ》から寝ないものもキョトンとしてそのままで手をつかねている。沖では船頭が寒がっている。二人の比丘尼《びくに》隠居のところからはせっせと使いがくる。
 夏の日は大川の船の中で昼寝をするのがならわしだった。髪を洗ってから、ちりめん浴衣で、桟橋につけさせてある屋根船《ふね》へ乗る。横になりながら髪を煽《あお》がせるのだ。そうした大名にも出来ない気ままが、家のうちに充満して、彼女の笥《くしげ》には何百両の鼈甲《べっこう》が寝せられ、香料の麝香《じゃこう》には金幾両が投じられるかわからなかった。現今《いま》の金に算して幾両の金数《きんす》は安く見えはするが、百文あれば蕎麦《そば》が食えて洗湯《ゆ》にはいれて吉原《なか》へゆけたという。競《くら》べものでないほど今日より金の高かった時代である。
 とうとう三菱が起り、三井が根をなし、旧時代の廻米《かいまい》問屋石川屋に瓦解《がかい》の時が来た。
 残りの有金《ありがね》で昔のゆめを追っているうちに、時世《じせい》はぐんぐんかわり、廻り燈籠《どうろう》のように世の中は走った。人間自然|淘汰《とうた》で佐兵衛さんも物故した。そのあとの挨拶に来たのが、私に印象させた長茄子のおばさんだったのだ。
 ある時、急に社会が外面的に欧化心酔した。それは明治十八年頃のいわゆる鹿鳴館《ろくめいかん》時代で、晩年にはあんなゴチゴチの国粋論者、山県元帥《やまがたげんすい》でさえ徹宵ダンスをしたり、鎗踊《やりおど》りをしたという、酒池肉林《しゅちにくりん》、狂舞の時期があった。吉原|大籬《おおまがき》の遊女もボンネットをかぶり、十八世紀風のひだの多い洋服を着て椅子に凭《よ》りかかって張店《はりみせ》をしたのを、見に連れてゆかれたのを、私はかすかに覚えている。わが日本橋区の問屋町は、旧慣墨守《きゅうかんぼくしゅ》、因循姑息《いんじゅんこそく》の土地だけに二、三年後にジワジワと水の浸みるようにはいって来た。でも私はびっくらした事がある。ある日、家へ帰ってくると、知らない顔のお母さんがいる。それが毎日の通り、ちっともちがわないお母さんらしい事をしてくれるが顔がどうも違うのだった。なぜなら母の顔は眉毛《まゆげ》がなくって薄青く光っていた。歯は綺麗に真黒だった。それなのに、目の前に見る母はボヤボヤと生え揃わない眉毛があって、歯が白くて気味が悪かった。彼女はまた何時になく機嫌よくニヤニヤするのでよけい気味が悪かった。
 と、祖母が言った。
「おたき、眉毛が立って狸《たぬき》のように見えてじじむさい、それだけは剃ったがよい。」
 母は嬉しくなさそうな返事をしたが、私はやっぱりお母さんだったのだと思った。急に黒襟《えり》のない着物を着たのと、髪の違ったのがなおさら人柄を違えて見せたのだった。
 私たちはその頃輸入されたばかりの毛糸で編んだ洋服を着せられ靴をはかせられた。二階に絨緞《じゅうたん》が敷かれ洋館になった。お母さんが珍しく外出すると思ったら月琴《げっきん》を習いにゆくのだった。譜本をだして父に説明していた、父は月琴をとって器用に弾いた。子供のおり富本《とみもと》を習った母よりも長唄《ながうた》をしこんでもらっている私たちの方がすぐに覚えて、九連環なぞという小曲は、譜で弾けた。チンチリチンテン、チリリンチンテンと響くこの真《ま》ん丸い楽器がひどく面白かったが、練習《おそわり》にゆくところが勝川のおばさんであろうとは随分長くしらなかった。
 私の家の外面的新時代風習はすぐ幕になってしまって、前よりも一層反動化したが、世間では清楽《しんがく》の流行はたいした勢いだった、月明に月琴を鳴らして通る――後にはホウカイ屋というのも出来たが――真面目で、伊太利《イタリー》の月に流すヴィオリンか、あるいは当時ハイカラな夫人がマンドリンを抱えているような、異国情緒を味わおうとしたのだった。
 私の家で、急激な母の変り方が、すぐまた前にもどったのに面白い些細《ささい》な訳があった。それは私たちをとても可愛がった酒屋が、利久そばやの前側にあって、隣家《となり》の家一軒買って通りぬけの広い納屋にした空地があるので、いい私たちの遊び場だった。二月の末になると赤い布をかけた白酒の樽《たる》が並べてあるのをかき廻しても叱りもしなかった。その酒屋の一人娘がワーワー泣いて阿父《おやじ》さんに叱られていたが、小さなアンポンタンの胸は、父娘《おやこ》のあらそいを聞いてドキンとした。
「そんな事をいったってお父さん、長谷川さんの御新造《ごしんぞ》さんだって、束髪に結って、細《こま》っかい珠《たま》のついた網をかけている。あんなやかましいおばあさんがいたってさせるのに、家でさせてくれないなんて――嘘《うそ》だというならいってごらん本当《ほん》だから! 買っとくれ
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