ったら買っとくれ、月琴も一緒に!」
 酒屋の娘だからでもないだろうが、お桝《ます》さんというその独り娘は、島田をゴロゴロさせて泣き喚《わめ》いた。
 阿父《おやじ》さんは、十《とお》にならない私には、新聞紙の一頁を二つに折ったほどの大きさの顔に見えた四角い人だった。胸毛も生えて、眉毛がねじれ上っていた。節瘤《ふしこぶ》だった両手両脚を出して、角力《すもう》の廻しのような、さしっこ[#「さしっこ」に傍点]でこしらえた前掛をかけて、白い眼だった。私は日本武尊《やまとたけるのみこと》の熊夷《くまそ》を思うとき、その酒屋の阿父を思出していたほどだった。塩鮭《しゃけ》は骨だけ別に焼いてかじった。干物は頭からみんな噛《かじ》ってしまうし、いなごや蝸牛《まいまいつぶろ》を食べるのを教えたのもこの人だ。それが怒鳴った。
「おれの家《うち》では買わせねえ、商業《しょうべえ》が違うのをしらねえか、どうしても頭に網をかぶせたきゃあ、そこにある餅網《もちあみ》でもかぶれ。」
 泣いていた娘と、青ぶくれな、お玉じゃくしのような顔の母親とは、キョトンとして、天井から釣るさがっている、かき餅のはいった餅網をながめたが、娘は一層狂暴に泣出した。母親は困って小さな私に救いを求める笑《えみ》を送った。
 私は駈《か》けてかえって祖母《おばあ》さんに訴えた。祖母さんはだまって白い台紙に張りつけた、さんご珠《じゅ》まがいの細かい珠《たま》のついた網を求めさせてくれた。お桝さんは満足だったが、宅の母の方が、それきり束髪を止《や》めさせられた。私の心の中で、母には似合わないと思っていたから、よしたので安心した。

 勝川のおばさんが日本橋区へ進出して来たのはそれから二、三年たってからだった。新道つづきの中《なか》一町をへだてた、私の通った小学校のあった町内の入口近かった。一間半ばかりの出窓をもった格子戸づくりの仕舞《しも》た家《や》で、流行《はやり》ものを教えるには都合のよい見附きだった。夏は窓に簾《すだれ》をかけ、洋燈《ランプ》をつけ、若い男女が集まって月琴や八雲琴をならっていた。窓には人だかりがしていた。近くなったので勝川おばさんは涼みながら来ては、蛇三味線《じゃみせん》を入れるの、明笛《みんてき》も入れるのと話していた。彼女には、漸《ようや》く昔の賑やかな生活の色彩に、調子はかわっていても、帰ってゆくのが嬉しかったのであろう。
 だが、そのうちに日清国交破裂となった。清楽なんぞやる奴《やつ》は国賊だとなった。勝川の窓は宵から締めないと石が降り込んだ。で、いつの間にか窓が閉って家の中の人も逐天《ちくてん》してしまった。
 それから幾年、また勝川おばさんの所在不明。
 大本教《おおもときょう》が盛りだした時以上に天理教流行の時があった。一体下町で、いつも景気のよい宗旨は日蓮宗だが、時々新らしい迷信が捲起《まきおこ》ることがある。ある時、葛籠屋《つづらや》の店蔵に荒莚《あらむしろ》を敷いた段をつくって、段上に丸鏡と榊《さかき》と燈明をおき神縄《しめ》を張り、白衣の男が無中になって怒鳴っていた。それを取りまいた一群が、トウカミエミカミ、トウカミエミカミというふうに喚《わ》めいていた、×××教というので堀越三升《ほりこしさんしょう》でさえ――九代目団十郎――権少都《ごんのしょうづ》の位になって信心してるのだからたいしたものでさという勢いだった。そのあとで狐狗狸《こっくり》さんが来た。これはむやみと景気がよくて大衆的大人気で、いたるところ向う鉢巻三味線入りで、車座になって、お飯櫃《はち》のふたをかぶせた三本足の竹の棒に神の来向を信じ、そら、足をあげた、ハイとおっしゃったとはしゃいだ。そのあとが天理教だった。
 天理教も大本教とおなじく、中山おみきさんという中国辺田舎のおばあさんが教主で、神田|美土代町《みとしろちょう》に立派に殿堂をしゃにかまえてしまった。これは信者の婦人が楽器《なりもの》入《い》りで、白装束《しろしょうぞく》、緋《ひ》の袴《はかま》、下げ髪で踊るのだった。なにしろ物見高い土地だから人だかりはすぐする。
 勝川おばさんが隠れてから十年もたったある日、大丸の向側の家で天理教の踊りがあった。私の下の方の妹たちが通りかかりに覗《のぞ》いて見たら、広い店中祭壇にして、片側に楽人がならび、明笛《みんてき》だの、和琴《わごん》だの交って、その中には湯川一族の、鉱山から逃出して帰って来た連中たちの顔が見えた。もっとよく見ていると、緋の袴で踊る少女が、あの戸板店《といたみせ》のおせんべ屋夫婦の二女だったので、母に聞えては悪いもののように、帰ってきてからそっと私にだけきかせた。
「そうっといって御覧なさい。今ならまだやってる。」
 だが、あたしには見にゆけなかった。言わなくても母たちは、勝川へ藤木の二女《むすめ》がずっといっているという事はしっていたのだった。
 さすがの花菊も、もうたいへんすたれ果てた年となっていたであろうが、お角力《すもう》は影の形体《かたち》を離れぬように、いつもぴったりと附いていた。御直参《おじきさん》ならずものたちは口が悪いから、宅などへくると、
「お角力はやっぱりいるさ。」
といって、
「あの角力も妙な男だよ。立派な図体《ずうたい》をして、なんでまあああしているのかねえ。まるで権助同様なあつかいで、あのおばさんのことだから、ポンポン言ってらあね。」
「商業でもしてるのかね。」
「どうしまして、台所やせんたくがなかなか忙しいのに、あれで道具運びの荷ごしらえに手がかかりますさ、力があるからお誂《あつら》えむきだが。」
「あの男だって相当な番附位置《ところ》にまではゆけたろうにな。」
「色の白い、体の奇麗な角力取りだったが、何も石川屋が没落したからって、自分も角力を没落しなくったってよさそうなもんだったのに。」
 だが、勝川お蝶さんの一生には、なくてならない人はこのお角力だったのだ。傍《はた》のものは道具はこびにお誂えむきだといったが、お角力にはピッタリはまった役目があったのだ。彼は勇敢に若き日の一生をかけて、その力を、自分の愛するもののためにとっておいたのだともいえる。そしてその最後の日が来た。
 天理教の踊りがピッタリ逼塞《ひっそく》してしまうと、勝川おばさんの逼塞も本ものになって、手も足も出なくなってしまった。むかし、大川の河風にふかれて船の上で昼寝をした夢をしのびながら、陋居《ろうきょ》に、お角力の膝《ひざ》を枕《まくら》にして、やさしく撫《な》でられながら彼女の生涯は終った。
 あたしの母も、母の姉のお房さんも行った。夜更けて帰って来て、なにしろ家がせまいから、明朝《あした》また早くゆくといってくつろいでいた。その翌日いったらもう死者は家にいなかった。落魄《らくはく》御直参連一党がつらなって帰って来てつぶやいた。
「今度こそ角力が入用な人間だったってことがわかったよ、おばさんの役にたった一番目で、それがおしまいだ。」
「だが秀逸だ、あの男の。」
 父が出てゆくとみんな頭を揃えてさげて、
「ありがとうございました。取りかたづけはすみました、角力がひとりで、しょってしまいました。」
「そうか、あの男でも、それだけの準備はしてあったと見えるね。」
「ところが、それがね、しょってしまったって、一さいの事ではないのですよ。滑稽《こっけい》なことにはおばさんの棺桶《かんおけ》をしょってしまったんでさあね。」
「人夫にしょわせるのは嫌だとでもいうんでしょうね、お角力さんの心意気だあね。」
と母が言った。皆は笑った。
「とにかく、今夜はおれひとりでお通夜をします。長く世話になったからというから、家はせまいし、尤《もっとも》だと思ってまかせたら、奴《やっこ》さんその間に、すたこら、自分で始末して、棺に入れてしょって、火葬揚《やきば》へもってってしまったんで――おばさん死ぬまで、重宝な権助をつかまえといたもんだ。」
 だが、私の目には笑えない、生涯のそり[#「のそり」に傍点]とした、そのくせ誠実な大男が、愛した女の亡骸《なきがら》を入れた桶をしょって、尻《しり》はしょりで、暗い門から露路裏を出てゆく後姿をかなしく思いうかべられた。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
2004年3月27日修正
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