、いやなこと、真っ平さね。」
 プツリと言いきって、狐《きつね》つきのようにだまり込んでいる。背を丸く首を傾《かし》げた姿を見るとどんなに世の荒波がこの善人を顛動《てんどう》させ、こうも呆《ぼ》けさせたかと痛ましかった。
 私はこの老女《ひと》の生母《ははおや》をたった一度見た覚えがある。谷中《やなか》御隠殿《ごいんでん》の棗《なつめ》の木のある家で、蓮池《はすいけ》のある庭にむかった室《へや》で、お比丘尼《びくに》だった。

 老年になってからこの夫妻は一緒に暮す日が多くなった。
 ある日|空巣《あきす》ねらいがはいった。おばあさんはキョトンとした眼で見ていたが、立っていって座布団《ざぶとん》を出した。盗棒《どろぼう》はびっくりして、落つかないお尻《しり》を布団の上にのせたが、お茶を出されてモジモジした。
「あいにく留守にしたあとで、私《あたくし》では何のお役にもたちませんで――どうぞ、ごゆるりとなさって下さいまし。」
 盗人《どろぼう》は飛上って次の間へゆき、グルリと見廻して出て来た。
 おばあさんはいよいよ真面目で、
「ただいまお菓子をとって参りますから、ちょっとどうぞお待ちを―
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