も一足早ければ、何か秀逸な遺言を残したであろうに――枕許《まくらもと》に、まだよく色つかぬ柿が、枝のまま籠《かご》に入れてあった。おじいさんの心づくしであったろう。

 老妻《おばあさん》が歿《な》くなると、老爺《おじい》さんの諦《あきら》めていた硫黄熱がまた燃てきた。次の間にはもう寝ているもののない、広々した住居に独りでポツネンと机にむかって、精密な珠算と細字とが、庭仕事の相間《あいま》に初まり、やがて庭仕事の方が相間にされるようになった。薄《すすき》の穂が飛んで、室内《へやのなか》の老爺さんの肩に赤トンボがとまろうと、桜が散り込んで小禽《ことり》が障子につきあたって飛廻っても、老爺さんには東京なのか山の中なのか、室内なのか外《おもて》なのか、ムツリとして無愛想になってしまった。
 だが、もうさびしい諦めはもっていたと見えて、山へ行くとは言いださなかった。たった一度そうした望みを洩《もら》したおり、私は出してやりたかった。山で死ぬのが彼にはいいと思ったが、彼の親類は困ると言った。それから急に年齢《とし》の衰えが来た。離家《はなれ》の垣根の隅でポッチリずつの硫黄を製煉し、研究してい
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