顔を見ると言った。
「あたくしはね、あたくしのお墓を見てびっくりいたしましたのですよ。私は生きてるのか、死んでるのか分りませんでね。」
やっと分った。苳《ふき》を摘《つ》みに来たおばあさんは、寒竹《かんちく》の籔《やぶ》の中に、小犬を埋めたしるしの石を見て呆然《ぼうぜん》としてしまったのだった。
またある日、湯川老人が私の前に言いわけなさそうに立った。
「ばあさんを、ちと、悪くしてしまいましてな。」
小さな眼をパチパチと伏せた。あとから離れの住居へいってみると、身寄りの男たちが二、三人いた。彼らは具合わるくモズモズした。
おばあさんの体が生体《しょうたい》なくグニャグニャになったというのだ。レウマチで関節の自由がよくなかったので、台湾からよい薬を持って来たから飲ましたのだといった。それならば暗い顔をする訳はないがと思うと、効《き》きすぎたのだとまた言った。それは湯川氏の婿の一人の士族で、官吏をやめて日清戦争に台湾に従軍し、そのまま居ついてしまった土佐弁の、日本人ばなれのした人だった。
「台湾《あち》では、チトチトやってもよく効くのを、おばアさん一時《いっとき》に飲んだでナア、いや、別に、悪いもんでも、叱られるよな薬でもないが、チト強いでナア。虎の血と、蛇と――もひとつ……」
猛獣の血と蛇の何かと、もひとつのものを乾し固めて粉にしたのを持って来て、分量はとにかく、八十上の老女に飲ませようとしたガムシャラな勇気におどろいてしまった。
肝心なおばあさんはモガモガこんなことを言った。
「とろけてしまうなんて、まるで惚《ほ》れたようで意気ですこと。おやっちゃん、あたくしゃ葡萄酒《ぶどうしゅ》でのみましたよ。」
なにしろ死んだら牛肉《ぎゅう》のおさしみを仏壇へあげてくれという人だったから、私は驚きもしなかった。
一年ばかりたった夏の朝、私の寝ている茶座敷の丸窓を、コツコツ叩《たた》くものがある。戸を一枚ひくと、老人が、
「ばあさんがどうも変で――」
そう言ったなり、竹箒《たかぼうき》をひいて、さっさと木《こ》の間《ま》にかくれて去《い》ってしまった。
暁闇《ぎょうあん》が萩《はぎ》のしずれに漂っていた。小蝶が幾羽《いくつ》もつばさを畳んで眠っていた。離家《はなれ》の明けてある戸をはいってゆくと、薄暗い青蚊帳《あおがや》の中に、大きな顔がすっかりゆるんでいた。
も一足早ければ、何か秀逸な遺言を残したであろうに――枕許《まくらもと》に、まだよく色つかぬ柿が、枝のまま籠《かご》に入れてあった。おじいさんの心づくしであったろう。
老妻《おばあさん》が歿《な》くなると、老爺《おじい》さんの諦《あきら》めていた硫黄熱がまた燃てきた。次の間にはもう寝ているもののない、広々した住居に独りでポツネンと机にむかって、精密な珠算と細字とが、庭仕事の相間《あいま》に初まり、やがて庭仕事の方が相間にされるようになった。薄《すすき》の穂が飛んで、室内《へやのなか》の老爺さんの肩に赤トンボがとまろうと、桜が散り込んで小禽《ことり》が障子につきあたって飛廻っても、老爺さんには東京なのか山の中なのか、室内なのか外《おもて》なのか、ムツリとして無愛想になってしまった。
だが、もうさびしい諦めはもっていたと見えて、山へ行くとは言いださなかった。たった一度そうした望みを洩《もら》したおり、私は出してやりたかった。山で死ぬのが彼にはいいと思ったが、彼の親類は困ると言った。それから急に年齢《とし》の衰えが来た。離家《はなれ》の垣根の隅でポッチリずつの硫黄を製煉し、研究している姿が蟇《ひきがえる》のように悲しかった。
私ひとりを便《たよ》りにでもしているように、私がものを書いている窓に来て一言二言ずついった。野球のミットのような掌《てのひら》を広げると、土佐絵に盛りあげた菜の花の黄か――黄色い蝶をつかんできたのかと思うほど鮮かな色があった。
彼の試練からとれた硫黄だった。
「これをひとつ、お見せくださらんか。」
老爺さんの頭には、その時、時の知名の成功者たちの名がうかんでいたに相違なかった。
「実業家や学者にもお近づきがあるでしょうから。」
鮮かな黄色は、私の黒ぬりの机の上にこぼれた。老爺さんは懐《ふところ》から部厚な書きものを出した。
硫黄採煉明細書と版に彫ったように正しく表書《おもてがき》がしてある。
「硫黄は釜《かま》が痛むものでしてな。」
と老爺さんはやっと発明した製煉釜のことを手真似で話した。私は老爺さんの心根を思って、駄目と知りながら知己《ちき》の鉱山所長にその明細書を見せたら、その人は首を振っていった。
「惜しいことにみんな外国で発明しられてしまっている。機械はもっと簡便に出来る。だが九十の老爺さんが、よく実地から此処《ここ》まで考
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