、いやなこと、真っ平さね。」
 プツリと言いきって、狐《きつね》つきのようにだまり込んでいる。背を丸く首を傾《かし》げた姿を見るとどんなに世の荒波がこの善人を顛動《てんどう》させ、こうも呆《ぼ》けさせたかと痛ましかった。
 私はこの老女《ひと》の生母《ははおや》をたった一度見た覚えがある。谷中《やなか》御隠殿《ごいんでん》の棗《なつめ》の木のある家で、蓮池《はすいけ》のある庭にむかった室《へや》で、お比丘尼《びくに》だった。

 老年になってからこの夫妻は一緒に暮す日が多くなった。
 ある日|空巣《あきす》ねらいがはいった。おばあさんはキョトンとした眼で見ていたが、立っていって座布団《ざぶとん》を出した。盗棒《どろぼう》はびっくりして、落つかないお尻《しり》を布団の上にのせたが、お茶を出されてモジモジした。
「あいにく留守にしたあとで、私《あたくし》では何のお役にもたちませんで――どうぞ、ごゆるりとなさって下さいまし。」
 盗人《どろぼう》は飛上って次の間へゆき、グルリと見廻して出て来た。
 おばあさんはいよいよ真面目で、
「ただいまお菓子をとって参りますから、ちょっとどうぞお待ちを――」
 盗人は狼狽《あわ》てた。外へ出られてはたまらない――彼の方が一目散《いちもくさん》に飛出すと、おばあさんが後から、
「もしもし貴下《あなた》、おわすれものですよ、なんておそそうな――」
 そう言って着せてやったのは、毛皮のついた外套《がいとう》だった。
 湯川氏が帰るとこの老妻は、盗人を笑った。
「なんてまあ、狼狽《あわて》たお客さんなのか。ねえおじいさん。」
「その人は何の用で、何処《どこ》から来た?」
「それを私《あたくし》が知りますものかね。老父《おじい》さんが御存じじゃありませんか。」
「私《わたし》がなんで知るものかね。」
「へえ? それは不思議だ。私《あたくし》はまた、貴夫《あなた》のお客さまだから、あなたが御存じだと思いましたよ。」
 老人は壁を見ていった。
「私《わし》の外套《がいとう》がないよ。」
「おやまあ嫌だ、あなたが着てお出《いで》になったのに――おじいさん老耄《ろうもう》なさった。」
「ばか言え、わしは着てゆかない。」
 ふと老父さんは、老妻が丁寧にお辞儀をしている頭のさきを、盗人《どろぼう》が、自分の外套をきて出てゆくのを思いうかべた。そして淋《さび》しい顔をして、私《あたし》のところへいつけに来た。
 誰かが、不用だといっていたインバネスが、身長《たけ》の短《ひく》いおじいさんの、丁度よい外套になりはしたが――

 私の父は晩年を佃島《つくだじま》の、相生橋畔《あいおいばしのほとり》に小松を多く植えて隠遁《いんとん》した。湯川氏夫妻もおなじ構内《かまえうち》に引取られた。七十代の婿《むこ》と八十代の舅《しゅうと》とは、共に矍鑠《かくしゃく》として潮風に禿頭《はげあたま》を黒く染め、朝は早くから夜は手許《てもと》の暗くなるまで庭仕事を励んだ。二人ともに、何が――と。
 一人が嶮《けわ》しい山谿《やまあい》を駈《かけ》る呼吸で松の木に登り、桜の幹にまたがって安房《あわ》上総《かずさ》を眺めると、片っぽは北辰《ほくしん》一刀流の構えで、木の根っ子をヤッと割るのである。寒中など水鼻汁《みずっぱな》をたらしながら、井戸水で、月の光りで鎌《かま》を磨《と》いでいたり、丸太石をころがしていたりする。日和《ひより》のよいころ芝を苅るときは、向うの方と、此方のほうで向いあいながら、
「いや、手前一向に武芸の方は不得手でげしてな。」
「いや、剣法でもなんでもあのコツだ。どうして、霧にかくれるというが、あなたの豁谷《たに》を渡るあれだ、あの※[#「口+息」、159−10]吸といったら、実際たいしたものだ。」
「いやどうも、そう仰《おっ》しゃられては汗顔のいたりだ。」
 ――だが、私が松の木の上にいる父を、老人《としより》の冷水《ひやみず》だとよびにゆくと、小さな声で、
「じいさんはやめたか?」
と訊《き》く、湯川老人の方へゆくと、
「や、もう、お父さんの若いこと若いこと、感服のいたりだ。」
と腰をのばす。この、老《おい》たる婿と、舅《しゅうと》と姑《しゅうとめ》が、どうした事か、毎日の、どんな些少《ささい》な交渉でもみんな私のところへ、一々もってくるのだった。三人の老人が、年寄らしいイゴで三すくみのかたちで、不平も悦《よろこ》びも感謝も、みんな私のところへもってくる。
「婆さんが腰をぬかして――なんともうす腑甲斐《ふがい》ない女《やつ》か。」
 湯川老人がそう言ってゆくと、入代《いれかわ》りに父が来て告げる。
「祖母《ばあ》さんが築山《つきやま》に座って、祖父《じい》さんに小言をいわれている。早く行ってやれ。」
 おばあさんは私の
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